日本シェイクスピア協会会報

Shakespeare News

Vol. 48 No. 2
December 2008

学 会 特 集 号

学 会 特 集

特別講演(要旨)
赤坂憲雄 シェイクスピア/異人たちの祭り

研究発表(要旨)

セミナー(要旨)


 

特別講演 (要旨)

シェイクスピア/異人たちの祭り

特別講演講師: 赤坂憲雄氏
  • 講師 赤坂 憲雄
  •  
    • 東北芸術工科大学大学院長
    • 東北文化研究センター所長
    • 福島県立博物館館長
    • 民俗学者

「異人」とか「境界」とか「王権」といったテーマがいまシェイクスピア研究でブームなっているのでぜひと言われ、専門外にもかかわらず講演をお引き受けしてしまった。レスリー・フィードラーの『シェイクスピアにおける異人』を繙いてみて茫然自失。これはごまかしようのない世界だと覚悟を決めた。小学生の時に読んだことのある『ヴェニスの商人』を文庫本の安西徹雄訳でもう一度読み直し、自分の専門の立場から何が言えるか、そこに賭けてみたいと思った。二つのことをお話しする。あらかじめお断りするが、先行研究の類にはいっさい目を通していない。僕がこれからお話しすることは、おそらくすでに誰かが言ったことかもしれないが、それは仕方のないことと諦めて話を進める。

『ヴェニスの商人』冒頭に登場する商人アントニオの憂鬱、その原因は何だろうか。船の積み荷のことでも恋煩いでもないらしい。彼は「世間を気にしすぎる」とも言われる。それは、商業・交易に付きまとうアイデンティティの不安と関係するかもしれない。中世という過渡期における商人のアイデンティティの葛藤のドラマとして、この作品を読み直せるのではないか。ゲオルク・ジンメルによれば、どんな文明でも黎明期に異人は商人として姿を現す。放浪者オイディプスは異人としての商人の神話的形象化であるという。古代ギリシアで商人は、罪・毒・病気・穢れそのものであり、少なくともそうしたメタファーから無縁ではありえない仕事だった。商人は土地の者であっても異人のように処遇される。価値体系の異なる共同体を繋ぎ、使用価値の落差を交換価値に翻訳し、魔術的行為・錬金術として利潤や冨を生み出す。マルクスの言うように、商品交換は共同体が尽き他者と出会い接触するところで始まる。だからホメロスは商人を「境を横切る者」と呼んだ。そのような商人というものが、『ヴェニスの商人』ではセックスや結婚と二重写しにされているようだ。恋に賭ける男女も境を横切って未知なる交換の場へと跳躍する。商業の起源を海賊行為とする学者もいる。また「沈黙交易」といって、異なる共同体の人同士が立ったまま言葉を交わさずに物を交換する交易の存在が知られているが、異文化が抱える穢れとの接触を避けるということが根底にあったのかもしれない。テンニエスは『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の中で、「定住的な土着文化にとって商業とは、縁のない、嫌われやすい現象だ」と言っている。商人は流浪者であり、いかがわしい危険な存在であった。

アントニオはシャイロックに対して、なぜあれほど差別意識をむき出しにするのだろうか?彼は異人としての自己の不安定なあり方を隠蔽するために、もう一人の異人シャイロックの異人性をむき出しに、増幅させようとしているのではないか。アントニオとシャイロックには、それぞれ異なる来歴を背負った異人としての記憶が影を落としているようだ。前者はキリスト教徒の貿易商人として、古代ローマ人の誇りとモラルを持って生きる。香料交易やシルクロードの交易で莫大な冨を集積しており、金の貸し借りはしない。後者は高利貸しでユダヤ教徒。中世という過渡期にはいまだ正当性を認められていない近代的モラルを身に帯びた気配がある。『ヴェニスの商人』は中世の交易都市を舞台に、古代的モラルとこれから現れてくる近代的モラル・世界観とが、衝突のドラマを演じているようだ。

  アントニオ…お前の金銀は羊同様、自然に子を産むとでもいいたいのか。
  シャイロックさあ、どうですか。いずれにせよ、金も銀も、立派に子供は産みますわな、手前どものところでは。(安西訳)
<注> 羊はけっして自然に子を産むわけではない。家畜として人間が長く手をかけ、いわば錬金術のように人為的に改変した、その結果として羊は子を産む。

高利貸しは後の金融資本主義の初期形態と読めるが、いまだ穢れた行為として忌避された。アントニオは法制度的には高利貸しを認めても、モラルとしては許さない。法や制度の隙間に生起してとりあえず合法的であっても、どこかに反社会性を刻印されている。そうした法とモラルの隙間に、裁判ではポーシャのある種の詭弁がかろうじて解決策を見いだした。そこでは、ユダヤ人シャイロックは異邦人であり、ヴェニス市民の外部に置かれた人であるということがむき出しにされる。シャイロックはキリスト教的世界・ヴェニスの市民社会に対して異邦人の座にとどめ置かれながらも、遵法の意志を表明する。彼はユダヤの民に対する差別に抗い、ヴェニスの法制度に則った戦いを挑み、結局は破れる。

マルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』に、「中世社会のユダヤ人のように古代世界の間隙の中で生存する少数の商業民族、仲介商業の独占者の場合にだけ、冨は自己目的として現れる」という一文がある。いわば冨を自己目的として生きる異人として中世社会のユダヤ人が見定められているということか。アルフレッド・シュッツは現象学的社会学の立場から、「異人とは歴史を持たない人間である」と語った。ユダヤ人は土地に根付いた歴史を持たない人間であるが故に、おそらく中世社会の懐深くから近代の価値やモラルを予告していたのかもしれない。

日本の事例に引きつけると、『霊異記』に寺院や僧侶が金融業を営む姿が記されている。網野善彦によれば、「無縁性」というものを担保にものやお金をきれいな「無縁の財」としてそれを運用し、世俗の貧しい人々を救済する仕掛けにしたという。やがてそれは冨を自己目的として展開し始める。また中世の絵では、高利貸しは必ず肥満した女性の姿で描かれた。僧侶も女性もある種の無縁性を持つ。そこには、利子に纏わる穢れを神仏の権威のもとで除去する濾過装置が存在したらしい。西洋ではおそらく、プロテスタンティズムの勃興によってはじめて商業・金融業に纏わる穢れが取り除かれた。利潤・冨の追求が勤勉という新たなモラルによって肯定され、そして資本主義が本格的に導入される。日本では仏教的モラルが、西洋ではプロテスタンティズムが、それぞれこの問題に影を落とす。

『ヴェニスの商人』は、中世という過渡の季節に生起した、商業や高利貸しをめぐる、引き裂かれたいくつかの情景を映しているのではないか、そんな気がする。以上「異人論」という視座から商人・高利貸しを眺めてみた。

さてもう一つのお話として、最近もっとも気になっているテーマ「食べる/交わる/殺す」をめぐる禁止・タブーを取り上げたい。昔話に異類婚姻譚というのがある。例えば「蛙の王様」だが、そこでは食と性との間に強い象徴的結びつきが見られる。そして命あるものを食べるということは、命あるものを殺すということでもある。『ヴェニスの商人』にも、この「食べる/交わる/殺す」をめぐる禁止・禁忌が張りめぐらされ、それがある種の隠喩的交錯をなしていると読めるのではないかという予感がする。そこにはメタファーとしての動物が繰り返し出てくる。また実体としての鳥獣虫魚がかなりの箇所で姿を見せる。これを分析してみたいと思うのだが、そこまではまだ届かないので、その手前あたりの話を少しだけさせていただこうと思う。

「人間の肉1ポンド」という表現が気になって、次のようなことを考えてみた。

可食性を一つの指標として人間や動物を分類してみると何が見えてくるか。殺すために殺す行為、それは人間については法制度的禁止の対象となる。動物については生け贄のために殺すということがある。食べない場合はそう言える。遊びとしての狩猟は、単に殺すために殺すということで非難されることが多い。食べるために殺す行為、それは人間であればカニバリズムになる。動物についてはどうか。家畜は食べるが、ペットは食べない。ただし近世のこの類の本には「猫の肉はおいしい」と出てくるし、犬の肉もついこの間まで食べられていた。またタブーの対象であるが故に食べない動物もある。このあたりからなにかが見えてくるのではないかという予感を覚える。

「交わる」というテーマについて言えば、この芝居では父娘の近親相姦的欲望、それをタブーとして描いている。「わしの娘は、わしの血肉だ」というシャイロックを、娘のジェシカは拒絶する。死んだ父親がポーシャに課した箱選びの呪縛にも、近親相姦的タブーによる抑圧のよじれが感じられる。娘を得るか去勢されるか、男たちは究極の選択を迫られ、未知なる世界への跳躍を強いられる。

「殺す」というテーマをめぐって、幾重にも隠蔽されているけれども、「肉1ポンド」には人肉食の臭いが付きまとう、そんな気がする。「その白いお体の肉、きっちり1ポンド、お体の、いかなる部分からなりと…。」「人間の肉、1ポンドもらったって、羊の肉、牛の肉、山羊の肉ほどの値打ちもなきゃあ、役にも立たん。」人間の肉がテーブルの上に盛られ、幻影のように我々の脳裏をよぎる。レヴィ・ストロースは狂牛病について触れたエッセイで、「動物の肉を食らう肉食とカニバリズムが思いがけぬ親しい関係を持っているということが、狂牛病問題の中で露出した」と言っている。肉食と人肉食は、我々が普通思っているほど断絶しているわけではない。人間の肉でも「魚を釣る餌ぐらいにはなる。腹の足しにはならずとも」とシャイロックは言う。また「ユダヤ人には、目がないのか。…手がないのか。胃も腸も、肝臓も腎臓もないというのか」というように身体を部分・要素に分解して見せること、それは肉屋の店頭に並ぶ家畜の肉の部分名称を連想させる。

裁判の中でポーシャは、「切り取るにあたって、もしもキリスト教徒の血を一滴たりとも流すときは」土地も財産もすべて没収すると告げる。詭弁ながらとても気になる台詞だ。もしかするとそこにも抑圧されたカニバリズムの影が差しているのではないか。

人間の身体の象徴的な家畜化がその言葉によって果たされている。家畜を食肉にするために、牧畜民は「去勢」および「屠畜/屠殺」の技術を用いる。去勢は、性を否定し生殖を人間のコントロール下に置くこと。また屠畜/屠殺の技術には、「血抜き」の技術が必ず含まれる。血を抜かなければその肉は食えなくなってしまうからだ。命をモノ化・商品化し、さらには可食化する。「血と肉の分離」の背景にはそんなことが隠されているのかもしれない。「肉1ポンド」は価格の設定を予想させるが、価格が設定されれば交換価値が発生してマーケットの一角を占めることになる。殺人かカニバリズムか曖昧なままに示されたシャイロックの要求を否定する論理として、ポーシャは身体を血と肉に分離することを思いついた。日本ではかつて、食べる動物の肉を「シシ」と呼んだ。イノシシ、タヌシシ、クマシシ、カモシシ、アオシシ(=カモシカ)…、食べられるケモノの肉はシシである。ポーシャが血と肉の分離を主張するときも、肉はモノに血は魂につながり、霊肉二元論が持ち出されているのかもしれない。分離の不可能性をもって、身体がモノ化され可食化されることを阻止するという論理立てだ。

ここで気になるのは犠牲としてのキリストの身体。パンと葡萄酒、すなわち肉と血のシンボリズムだ。それは神の身体を共食すること、ある意味ではそこにも秘められたカニバリズムが影を落としているのかもしれない。キリスト教徒の信仰共同体を更新していくための儀礼として行われている、血と肉に身体を分離して見せるパンと葡萄酒のシンボリズム、そこへただちに移行していくような、そんなきわどさを含んでいる。

このようなカニバリズムの風景は一瞬だけ露出し、直ちに否定されて意識の深みに沈められる。「肉1ポンド」という言葉で、それが繰り返し反復される。法や制度では殺人を裁くことはできても、人肉食を裁くことができないのかもしれない。人肉を食べてはいけないという法律は、それ自体が忌避され、法律として示されることがないのではないか。「食べる/交わる/殺す」をめぐって、三つの禁止・タブーが、そしてそれを侵犯するということが、この作品の中には繰り返し登場する。それをもう少し丁寧に読み解くとなにか見えてくるのではないかという気がするが、まだそれは鮮明には見えていない。

僕が思いつきでいまお話ししたことは、シェイクスピア研究の中ですでに論じられていることがほとんどではないかと思うが、今回『ヴェニスの商人』という作品に向かい合ってみて、僕自身は面白かった。昔話の異類婚姻譚といったものと重ね合わせにしたりしながら、なにかが見えてきそうな予感だけはする。僕にとって『異人論』は本当に若い頃の仕事だが、最近になって、東北というフィールドをくぐり抜けてあらためて異人論のその場所に回帰しようとしている、そんな感触を持っている。

(要約文責:清水徹郎)


第47回 シ ェ イ ク ス ピ ア 学 会 報 告
2008年10月11日(土)・12日(日)
会 場: 岩手県立大学(滝沢キャンパス)

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研究発表(要旨)

第1室

司会 学習院大学教授 中野 春夫


Sauny the Scot (1667)にみる新たな喜劇性について
大和 高行

Sauny the Scot (1667)は、 Taming of the Shrew の改作として知られる王政復古期の喜劇である。この劇では、題名の役を演じた俳優兼劇作家John Lacyの喜劇的演技に光が当るよう、従者Saunyの役どころを大きくして、新たな「じゃじゃ馬もの」を作り出している。他方、Sauny はJohn Tatham以来のスコットランドネタを売りにする劇の系譜に連なるキャラクターであり、スコットランド語風の訛りが実際にはイングランド北部地方ドンカスターの方言で語られることで、「英国」ばかりか「イングランド国」内の不統一をも暴く。ゆえに、本作品の喜劇性は複雑なものである。

Sauny the Scot とは、女性嫌悪に外国人嫌悪が加わったテクストであり、主としてMargaretとSaunyによって発せられる不満の声が、17世紀中葉のイングランドの家庭的/国内的ドメスティックな不協和音を奏でる。とりわけ、職業的女優が演ずるMargaretは、その声および抵抗のアクションによって、イングランドの家庭内における女性の不満を前景化したに違いない。Margaretは第5幕第1場冒頭で依然としてPetruchioに対する復讐計画を口にするが、終幕でPetruchioがかろうじて棺桶に封じ込めることに成功するMargaretの「不満」は、John Fletcherの The Woman’s Prize; or The Tamer Tam'd 第5幕第4場の顛末、ならびに、そのエピローグが讃美する男女平等思想が想起される時、完全に回収されはしない。

Sauny the Scot には他の劇作品への言及が多いが、作品中で唯一「インド」への言及がなされる箇所(5.1.161-62)は、以下のインターテクスチュアリティをもたらした可能性がある。即ち、John Drydenの The Indian Emperor  (1665)で初舞台を踏んだ Nell Gwynが、もし1667年の Sauny the Scot 初演時に Margaret を演じたとすれば、「インド」という言葉からの連想で、その演劇的空間はイングランドから一ひとっ飛びにインドにまで広がったことであろう。イングランド人女性を代表するMargaret の家庭的/国内的ドメスティックな不満は、男女平等思想が受け入れられなければ、アバディーン出身の出稼ぎ従者(と目される) Sauny とその主人であるイングランドの家父長 Petruchio に、「インド」なる場所で一旗上げるようにと究極の要望を突きつけているように見える。

(鹿児島大学准教授)


スティーヴンズとマローン
—— 18世紀シェイクスピア全集における注釈、誤読、そして「友情」
米谷 郁子

1793年に増補改訂版として出版されたSteevensによる15巻集注版の序文(“Advertisement”)は、通常SteevensによるMaloneへの攻撃、つまり1790年のMaloneの10巻集注版への嫉妬に満ちた理不尽な反応として解釈されている。とりわけMargareta De GraziaやBrian VickersのSteevens批判は、「口の悪いいたずら好き」としてのSteevensに眉をひそめていたBoswellやMaloneらの私的な論評によって構築された解釈であり、同時代人のSteevensへの偏見もそのまま継承した解釈となっている。テクスト編纂の現場の外部で渦巻いていたSteevensという人間個人に対するこのような偏見に捉えられることなく、SteevensとMaloneの関係とその現代における意義を再解釈しておくべきである、という観点のもとに、等閑視される傾向にあったSteevensの編纂方法とMaloneの集注版、さらには19世紀以降の集注版との関わりについて考察した。Steevensの版の特徴は、当時成長していた一般読者層への便宜をはかり、読者による多様な解釈の可能性を意識しつつ、注釈部分を大幅に増補し、相矛盾する注釈がある場合はどちらかを恣意的に選択することなく併記し、それぞれの注釈の後に注釈者の名前を付したことである。MaloneはF1など古いテクストの権威を最優先しているように見えつつも、実際には1785年版のJohnson-Steevens版の校訂も採用しており、その校合方法は先行テクストのそれらと比べればシステマティックになってはいるものの、ハイブリッドな性格を持つものとなっている。De Graziaは、James Boswell (Boswell Jr.)によって準備された1821年の全集版には1790年のMalone版の構造が反映されていると指摘し、1790年版の遺産と、その大幅に拡大された1821年版の遺産の間に存在する共通性を認めなければならないと主張する。しかし、1821年の21巻本を目にすると、この版が表明しているような1790年版の注釈との類似性よりもむしろ、1793年版、さらにJohnson-Steevensの 1803、1813 年の版との方に類似性が認められるのである。SteevensとMaloneの間に、たとえ私的個人的な対立はあったとしても、この2人の編纂した全集は同一の集注版編纂のパラダイムにのっとって編まれたものである、ということを論じた。

(埼玉工業大学准教授)

司会 中央大学教授 金子 雄司


18世紀の版本とフォリオ本への書き込み
住本 規子

現存するシェイクスピア・フォリオのコピーには書き込みのあるものが少なからず存在する。本発表では、ボドレー図書館所蔵のセカンド・フォリオとフォース・フォリオの合本(請求番号Arch.Gc.9)、および、フォルジャー図書館所蔵のサード・フォリオ(請求番号s2914 Fo.3 no.20)の書き込みについて、画像を用いて報告した。それぞれ、書き込みと特定の版本とのあいだの密接な関係性を指摘する19世紀後半に発表された先行研究の存在を紹介したのち、書き込みの特徴を具体的にみた。

Rowe本に依拠する書き込みをもつGc.9の場合では、Sig.*1 に書き込まれた「シェイクスピア伝」の要約、他の複数のページにみられるそこからの引用例をはじめ、言語化した口絵、幕場割りやト書きの移入、登場人物表の転記ないしは整備を示す箇所などをみると同時に、Rowe本出版以前のロンドンにおける上演にもリンクが観察されることを指摘した。Pope本に依拠する書き込みをもつFo.3 no.20の場合では、Pope本にある場所の設定や材源情報、各種脚注、幕場割りの転記処理例を見たほか、テクスト行頭や場面冒頭にPopeがつけた各種マークが転記されているのみならず、独自の拡充も施されており、Richard IIの死の場面に至っては目を強調した横顔の絵が描き込まれていること、等を報告した。また、Theobald本からの情報も少数ながら取り込まれていることを指摘した。

おわりに、Hanmer本の脚注とグロッサリーを転写した明星大学所蔵サード・フォリオ(MR733)(第44回学会セミナーにて報告)の事例には、かくて、同様の例が複数存在することが明確になった、としたうえで、このような書き込み行動をW.H. Shermanの近著にもある用語を用いてフォリオの「カストマイズ」と仮に名付けたい、とした。(Folgerコピーの調査は科研費(19520266)の助成を受けたものである。)

(明星大学教授)


Thomas Nashe, The Unfortunate Traveller 第二版(1594)の印刷と出版
英 知明

本発表では、先ずUnfortunate Q2 (Thomas Scarlet印刷所)の分担印刷業者を、本文に現れる損傷活字を根拠に John Danterであることを確認した。次に二箇所の印刷所で、ナッシュが改訂を施した一冊しかない印刷所原本をいかに分け合ったかという問題について、原本の区切り位置の特徴からScarletとDanterは二度面会し、2シート減を慎重に実行したと推測。またQ2を発刊させたナッシュの理由と本音、Scarletや出版業者BurbyのQ2出版にまつわる意義や個別の事情などを推量し、作家、印刷業者、出版業者が紡ぎ出すQ2をめぐる関係者たちの「思惑」をひとつひとつ論じた。またQ1とQ2の出版経費の比較や、ScarletとDanter両印刷所が見せた対照的なQ2の植字スタイルとそれぞれの技巧の巧拙なども勘案し、これらの営為をすべて俯瞰的に見渡してQ2出版へと導いたBurbyの出版業者としての合理的判断について検証した。

(慶應義塾大学教授)

第2室

司会 奈良女子大学准教授 西出 良郎


『エドワード三世』における恋愛場面と歴史記述
三浦 誉史加

King EdwardがCountess of Salisburyに横恋慕し、彼女に不義を強要する前半と、彼が王位継承権を主張してFranceに行う宣戦布告をきっかけに始まる百年戦争の後半で構成される King Edward III は、王者として教育され成長する親子を描き、体制を支持しているように思える。しかしながら、恋愛と戦争を互いの比喩として用いる常套手段によって、恋愛場面は戦争場面に影響を与え、King Edwardが従事する戦争の正当性を無効化し、体制批判の要素を同劇に持たせる可能性を孕む。Countessを賞賛する詩において、実際の美以上に美しく見せるペンは、戦争において歴史を記述するペンとしての槍が、権力者の正当性を捏造するものとして機能する危険性を暗示するものとなる。一見美しい草花が実は腐敗物や排泄物を吸い上げて成長するとするCountess の台詞は、戦場という大地に美しく展開する自然として言及される戦闘員たちが拠り所とする、正しい戦争を演出する大儀名分を否定する。死によって肉体から離れることで戦場での勇気を示すはずの魂は、肉体への執着を見せ、理想の騎士としての王子の教育を損なう危険性をすべりこませる。残虐な兵士達から逃げ惑う民衆の台詞は、戦争のため政情不安に陥ったEnglandをも暗示し、戦闘に勝利するEnglandの負の面を想起させる役割を持つ。時系列を変え、時に歴史的誤謬をもとりまぜつつ、虚実ない交ぜに行う歴史記述によって、王の権力が最も強力に遂行される戦争を賛美し、体制強化を図る一方、そうした恣意的言説の不誠実さを暴く役割を果たすものとして前半部の恋愛シーンは機能する。欲に打ち勝つ王の教育が成功し、後半ではその存在が消えてしまったかのように思われる恋愛シーンは、権力に対して常に複雑な姿勢をとる同劇を、全体を通じて支える装置となっていることを主張した。

(梅光学院大学専任講師)


Peele's David and Bethsabe —— 1590年代の聖書劇をめぐって
佐野 髢

George PeeleのDavid and Bethsabe (1592-94)は、Peeleのキャリアの晩年に創作された政治劇であり、旧約聖書『サムエル記』に取材している点に特徴がある。先行研究を概観すれば明らかなように、本劇においては、Davidを中心に展開される政治劇的な部分と、Absolon(特にその黄金の髪)を軸に描き出される部分の2点が注目を集めてきた。材源との比較対照を通してより詳細に検証してみるならば、Peeleが意図した作劇上の主要な変更点は、Davidの“humanization”─材源におけるプラグマティックな政治家としての機能の希薄化と、それに伴う人間的情愛を備えた人物としての変容だけでなく、絶対神ヤハウェを中心とした旧約の物語の人間中心化─であり、軍司令官Joabの一層の冷徹な政治化であり、Absolonの機能拡大の3点であったことが判明する。こうした操作と並行する形で、Peeleは材源での長期にわたる物語の展開を圧縮し、短い時間経過の中でペリペテイア風の急展開を多用することで、Absolonの波乱に富んだ物語が牽引する形でDavidのプロットに波紋が生じ、それがDavidの感情に起伏を発生させてゆく─本劇が有する劇的構造とは、このようなものと考えられるのである。

David and Bethsabe をめぐる今一つの重要な点は、聖史劇衰退の流れの中で、本劇をどのように位置付けるのかという演劇史上の問題である。アングリカン・チャーチ体制による、カトリック的偶像崇拝の意味を負わされた聖史劇の抑圧が進行する一方、14世紀の後半以来200年にわたって存続してきた聖史劇にまつわる記憶が、イングランド人のメンタリティに深く浸透していた。この両者のせめぎ合いの中で、職業劇作家として、聖史劇に対する民衆の根強い指向へ配慮すると同時に、大学才人としての古典的素養に裏打ちされた材源の人間化を行うことで、おそらくPeeleは、本劇を誕生させたのであり、この劇の演劇史的位置取りも、そのようなところにあるのではないかと考えられる。

(筑波大学准教授)

司会 成蹊大学教授 正岡 和恵


ルネサンス演劇における演技と現実性
中村 未樹

ルネサンスの時代、演劇はミメーシスの観点から評価されることが多かった。その際、演劇は現実の影であり、非実体的な虚構であるということ、また、演劇は現実を正確に映し出すものではないということがしばしば指摘されている。しかし、演劇は舞台上で役者によって演じられるという点においては実体性を持つものである。さらに、1600年前後のイギリス演劇界では現実により即した演技が推奨されるようになっている。これらの演劇をめぐる相反する側面を、当時のイギリスにおける舞台表象を特徴付ける問題とみなし、本発表では、The Spanish Tragedy (ST)A Midsummer Night’s Dream (MND)、そして役者Richard Burbageについて考察した。STの最後の劇中劇において、劇場の観客はHieronimoの台詞に従って劇を虚構として観る一方で、Horatioの死体の光景によって引き付けられていく。観客の意識において、舞台上の死体は現実社会における公開処刑の光景と重ね合わされるのであり、ここでは役者の身体の実体性が観客のengagementを生み出していくことになる。また、MNDのBottomは現実に即した演技への意欲を見せるが、実際の彼の演技は大袈裟なものであり、彼らの劇は予想とは裏腹にdetachmentの効果を劇中観客にもたらすことになる。しかし、一方では、Bottomという素人俳優を自然に、Bottomそのままらしく演じる宮内大臣一座の役者の技量がそこには読み取れるのであり、その演技力によってBottomという登場人物のillusionは成立するのである。最後に、 Burbageの死後出版されたelegyでは、彼の演技の迫真性が賞賛されており、また、舞台の虚構性と現実性をめぐる混乱した受容の状況がうかがえる。演劇の虚構性を示しながらも現実性を構築しようとする試みが当時の舞台表象の特徴なのであり、観客により現実感を与える舞台を作り出していく上で、役者の身体と演技が重要になっていたと考えられる。

(大阪大学准教授)


メランコリーの悪魔 —— Hamlet における狂気の階層性と社会不安
松岡 浩史

Shakespeareの時代における精神と身体のメカニズムは、今日の我々が想定するものとは大きく異なり、とりわけ精神の病に関しては、ガレノス医学以来の四体液理論に基づいた体液のアンバランスによって生じるものであるか、あるいは悪魔によって知覚を操作されている状態として説明された。ただし、ClaudiusがHamletの狂気を分析して、「言っていることはいささか脈絡を欠いてはいるが、狂気(madness)などではない。心にわだかまりがあってメランコリーがそれを抱えてじっと暖めている。(III.i.165-7)」と言うように、メランコリーが必ずしも狂気であったわけではない。同時代の複数の体液理論書によると、四体液の一つとしての黒胆汁(natural melancholy)が優勢となった状態のほかに、体液理論によっては説明のつかない、灰化(adust)という現象によって生じたメランコリー(unnatural melancholy)なるものが想定されていたのである。言い換えれば、Shakespeareの時代には、もはや瀉血や浄化といったガレノス医学では対応できない狂気というものが顕在化していたのだ。このような狂気の多層性は、Hamlet の劇世界では、狂気を演じるHamletと現実に錯乱するOpheliaによって如実に描き分けられているといえるだろう。

社会史資料によれば、じっさいの精神病患者がいる一方で、体液理論が作りだし、とりわけ知識階級の人々の間で流行したスノッブとしてのメランコリーが存在していたことがわかる。Opheliaがおちいるのは紛れもなく精神錯乱であり、キリスト教徒としての埋葬を拒否されるそのいわくつきの狂死は、共同体からの追放という同時代の大きな社会不安を描き出すが、Hamletが演じるのはフィクションとしての「狂気」なのかもしれない。Shakespeareは、1590年代における一連の喜劇において確立されたステレオタイプとしてのメランコリーをはじめて悲劇の舞台にのせた。そしてそこには体液理論上のメランコリーからは大きく逸脱した、社会不安としての精神病、真の狂気が顔を覗かせている。

(東京工芸大学非常勤講師)

第3室

司会 獨協大学准教授 前沢 浩子


ハッピーエンドの Tom Thumb —— Eliza Haywood作  The Opera of Operas における結婚観
撫原 華子

Eliza Haywood (c.1693-1756) のThe Opera of Operas; or Tom Thumb the Great (1733)は、Henry Fieldingの Tom Thumb (1730)をFielding自身が書き換えた The Tragedy of Tragedies (1731)の改作である。Fieldingの原作からHaywoodの改作への主要な改変点としては、33曲の歌が追加されバラッド・オペラ化されたことをはじめ、ハッピーエンドの結末が追加されたことや、女性登場人物の扱いが拡大されていることが挙げられる。これらの改変点のうち、本発表ではハッピーエンドの結末の追加に主として注目し、この劇の結末に垣間見える結婚観、ひいては当時の社会の結婚観について考察した。結婚をめぐる描写に関して、この劇でもっとも顕著な点は、主要女性登場人物たちが秘密結婚や姦通を考えはしても実行しないことである。Fieldingによる原作では彼女たちは幕切れで刺殺されるが、Haywoodによる改作では、そのヒロインたちを生き返らせるプロットとなっている。Haywoodによる改作における「生き返り」のプロットは、秘密結婚や姦通をめぐる1730年代の世論の動向を察知し、彼女たちが社会通念を逸脱しなかった点に観客の称賛をむけるためではないか。なおこうした考察の過程で、Haywoodの改作の一ヶ月前に初演されたLewis Theobaldの The Fatal Secret (1733)における結婚をめぐるプロットとの比較を試みた。このTheobaldの作品は、1614年に初演されたJohn Websterの The Duchessof Malfi の改作である。Theobaldによる改作でのヒロインの行動は、原作での公爵夫人のように、結婚制度をめぐる社会規範に真っ向から挑戦するのではなく、最終的には社会規範に沿うように表象されている。興味深いのは、Theobaldによる改作においても、Haywoodの劇と同様に、ヒロインが「奇跡のように生き返る」点である。1730年代前半において、生き返りという「奇跡」のプロットは、女性の自己主張を社会通念から逸脱しないように表象しようとする演劇的常套手段のひとつであったのではないか。

(東京女子大学大学院博士後期課程・日本学術振興会特別研究員)


Edward I —— 書き加えられた王妃レオノールの筋書き
前原 澄子

George PeeleのEdward I における残酷でプライドの高いレオノール王妃のエピソードは、史実に反するばかりか、ウェイルズ征服の本筋との関連性に乏しいことから、何らかの理由で加筆されたものと考えられてきた。とりわけ、アルマダ海戦後の反スペイン感情から、スペイン出身の王妃を歪曲したと見なす批評家が多い。ところが、王妃の筋書きは同時代のバラッドでも詳細に歌われており、そこには必ずしも反スペイン感情を読み取ることはできない。バラッドは、スペイン王妃の「プライド」を高価な外国製の衣服や日用品に喩え、イングランドが贅沢な大陸文化に毒されないよう警告する。一方、劇においても、王妃のプライドは、イングランド産の羊毛への蔑視と、外国製の高価な布地の偏重を通して浮き彫りにされる。すなわち、レオノ−ル王妃の筋書きには、16世紀末の国際貿易都市ロンドンの世相を諷刺する要素が含まれていたと考えられる。

また、レオノール王妃の筋書きには、かの従順な妻グリセルダのパロディを意図する要素が散見する。グリセルダが、時の女王エリザベスを連想させるメタファーでもあったことを踏まえると、王妃の筋書きは、本劇において新たな意味を帯びてくる。すなわち、王妃はエドワード2世をウェイルズで出産し、「ウェイルズ生まれのウェイルズ王」が誕生することによって両国の統合が結実するが、ここにはDavid PowelのThe Historie of Cambria を踏襲する史実の書き替えが認められ、劇が本書と同様に、エリザベス女王をブリテンの王位継承者として正当化するものであることが窺える。加筆されたと見なされるレオノール王妃の筋書きは、一見大衆的な観客向けにバラッドのテーマを接ぎ木したかのように見えて、実のところは嫡子のない女王晩年の時代に様々な含みをもった劇への書き換えであったと考えられるのである。

(明石工業高等専門学校教授)

司会 岩手大学教授 境野 直樹


贈り物と口づけと死 —— 『アントニーとクレオパトラ』における贈与の問題
北村 紗衣

Antony and Cleopatra において、登場人物は頻繁にものを贈ったり、もらったりする。しかしながらMarcel MaussやLewis Hyde、Georges Bataille、Jacques Derridaなどによる贈与論研究の多様な成果はShakespeare研究にもしばしば取り入れられているにもかかわらず、Antony and Cleopatra における贈与の意味合いに着目した分析はまだ少ない。本発表においては、こうした贈与論における主要な先行研究を参照しつつ、 Antony and Cleopatra において贈与がジェンダーや政治、宗教、死などの作品の根幹をなす問題といかに密接に絡み合っているかを考察した。

Antony and Cleopatra において、アントニーは気前の良さという初期近代ヨーロッパにおいて最も称賛された美徳の一つをふんだんにそなえた人物として描かれている。一方でアントニーは初期近代特有の贈与における自律性の問題にも悩まされている。アントニーは互酬関係の中で贈り物の受け手としてへつらうことを拒否するが、こうした誇り高い贈与の遂行者たらんとする姿勢ゆえに彼の贈与はしばしば不成功に終わり、最終的にはアントニーの贈与における選択がローマとエジプトとの間の戦争という重大な結果を招く。

一方でクレオパトラは贈与においてより慎重であるが、これは贈与における自律性がクレオパトラの女王としての権力を象徴していることに起因している。クレオパトラは政治の場で贈与を活用することでエジプトを守ろうとするが、結局エジプトは敗北し、クレオパトラは自律性を守るために死を選ぶ。クレオパトラの自殺の場面においては贈与がキリスト教以前の古代の神々に対する信仰と結びつけられており、その死は古代世界の終焉を象徴する特異な歴史性を帯びた出来事として描き出されていると言える。

(東京大学大学院博士後期課程・日本学術振興会特別研究員)


地の果てからの来訪者と『ヴェニスの商人』
勝山 貴之

従来のThe Merchant of Venice 論では、地中海貿易都市Veniceの国際性が重視されてきた。しかし16世紀後半、アフリカ大陸を迂回するインド航路や新大陸を結ぶ大西洋航路の発見により、貿易地図は大きく書き換えられようとしていた。Antonioの商船が訪れる貿易港は、地中海を越えて、Barbary、Mexico、the Indiesへと広がっており、新たな貿易航路が確立されようとしていたことが窺える。むしろShakespeareが作品の中に描き出しているのは、翳りを見せ始めていたVeniceの現実ではなく、世界貿易への覇権をかけたEnglandの野心の投影であったことが理解される。

しかし自分たちの内にある他国への欲望は、そのまま他者による自国への欲望を誘う危険性をもはらむ。地の果てからの来訪者によるPortiaへの求婚は、まさにEngland人自身のアイデンティティの危機を舞台上に描き出すものであり、MoroccoやSpainからの求婚者は、大西洋航路という新たな国際貿易への扉を開いたEngland人から見た、自国の文化に対する他者の脅威を表している。なかでもMoroccoは文化的に遠く離れたイスラム国家であるにもかかわらず、当時の複雑な国際情勢においては、対Spain戦略の一環として、重要な同胞と見做さざるをえない国であった。こうした状況のなか、England人が自らのうちに異教徒に対する、妥協と反感、信頼と懐疑、そして友好と軽蔑といった相反する複雑な感情を抱いていたことは容易に推測できるのである。

作品からは、諸外国との新たな関係創出のなかで、人種、宗教、性に対する不安に揺れ動くEnglandの国民的アイデンティティの模索の様子が窺われる。大西洋貿易が成立しようとする時期において、England人は自らの新たな役割を発見し、自己成型を果たすことを求められていたのである。劇の結末は、そうしたEngland人の内的葛藤にひとまず安堵感を与える形で収束するが、同時に、時代を生きるEngland人の心象風景を的確に映し出し、内なる不安を抉り出して前景化する働きもしている。

(同志社大学教授)

第4室

司会 白百合女子大学教授 荒木 正純


Manga とシェイクスピアが出会うとき
吉原 ゆかり

2007年、イギリスの出版社SelfMadeHero社から、Manga Shakespeare シリーズの刊行が始まった。日本に起源をもつマンガに由来するmangaという表現媒体を用いて、イギリスに在住するアーティストが、イギリスの出版社から、シェイクスピアの翻案作品を出版するという事態は、いったいなにを示しているのだろうか。他方、手塚治虫の『バンパイヤ』(1966)がシェイクスピアの『リチャード三世』と『マクベス』の翻案であるという例にみるように、日本にはマンガによるシェイクスピア翻案・パロディが多数存在する。舞台上演についていえば、いのうえひでのり演出(劇団☆新感線)の『メタル・マクベス』(2006)や『朧の森に棲む鬼』(2007)は、シェイクスピア翻案であると同時に、随所にマンガ的なテイストをちりばめており、後者には前述の手塚『バンパイヤ』に由来すると思われる箇所も多い。アニメーションでは、近未来空中浮遊都市に舞台を移し替え、ジュリエットを革命勢力の美少女剣士に変身させた日本のアニメーション制作チームGONZOによる『ロミオXジュリエット』(2007)が、日本国内外で話題を呼んだ。さらには、台湾や中国で出版されたmanga版シェイクスピアも存在し、それらの一部は、韓国で出版されたmanga版の中国語への翻訳である。高級文化であるはずのシェイクスピアと、低級文化とされる manga(的なもの)とがメディア・ミックスし、世界規模の市場に流通しているというこの事態は、グローバル化とローカル文化、文化序列の諸問題について、数多くのことを語りかけてくる。「まんがで読破 リア王」(日本、2008)が、格差社会や貧困層の拡大など、現代日本が抱える病理を色濃く反映した改作であるという例などに見られるとおり、現代的関心に対応するように「シェイクスピアを創造的に改作」したと評価できる作品も少なくない。双方ともグローバル化した巨大な文化資本であるmangaとシェイクスピアの関係の、これからに注目したい。

(筑波大学准教授)


“A voucher stronger than ever law could make”
—— 『シンベリン』における書記作用とメディア・リテラシー
本橋 哲也

Cymbeline では、書記の力学とそれが表象する出来事や事象が、人間の身体とそれを包む衣装との狭間でせめぎあう。役者の身体上で記号の解釈闘争が行なわれ、創作当時少年俳優が演じていた女性の境界侵犯的な肉体上で、裸体上の書記作用の読解能力が階級やジェンダーによって差異化される。

Iachimoによって視姦され、その筆で書きとめられたImogenの肉体が経済的法的用語におきかえられ、彼女の女性的身体は男性的書記権力作用に従属する裸身に還元されるが、彼の書記行為は身体を十全に表現できないという表象不可能性につきあたる。こうしてIachimoの叙述を読解する能力、すなわちメディア・リテラシーに関わる問いが導入されていく。

こうした書記作用とメディア・リテラシーとの抗争を輻輳化するのが、Imogenによる変装である。Imogenにとって、女性差別的な書記作用による記号連鎖の暴力に対抗する男装こそが、虚偽そのものの演劇的所作であるがゆえに、メディアとしての身体の構造変革をもたらす。そしてそうした身体的変容を書記作用へと翻訳するのが、Imogenを殺したと偽りの報告をPosthumusに伝えるために返送されるPisanioの手紙なのだ。Pisanioは召使という従属的な立場ゆえに優秀なメディア読解能力を生存手段とし、階級制度による構造的差異化ゆえに「手紙」の書記作用を超えた新たな関係性の次元を切り開くことができる。

最後にGuideriusがCymbelineの実の息子であることを証しする「証拠」となるのは、彼の「首もとのホクロという真紅の星」である。Imogenの「不貞」の証拠とされた「胸もとのホクロ」が「汚点」から「真紅の露」という美徳の象徴へとふたたび転記されると同時に、家父長制度をささえる長男の血統も回復される。証拠としての徴が象徴としての標記に恣意的に変換されることによって、親子、兄妹、夫婦、友人、主従というジェンダー的政治階層秩序がすべての登場人物を包摂し、異性愛主義と家父長制度から見た包括的な和解がもたらされるのである。

(東京経済大学教授)

司会 金沢大学名誉教授 三盃 隆一


近代初期イギリス旅行記における cabinet of curiosities 的視点
橋 三和子

17世紀初めにイギリス人旅行者により書かれた大陸旅行記は、異国の街を描く時、旅行者が体験、見聞したとする物事や出来事とその地に関する地理や歴史といった一般的な情報を次々と羅列して記述している。このような雑多な記述は、一見ただ無秩序に読者に情報を与えていると捉えられるが、本発表は、同時代に流行したcabinet of curiositiesというコレクション形態における視点からこうした記述を積極的な空間描写の手法として捉えなおす。具体的には、Thomas Coryatの Crudities (1611)、Fynes Morysonの Itinerary (1617)、William Lithgowの The Totall Discourse (1632)の三つの旅行記を分析する。cabinet of curiositiesは、近代初期、ヨーロッパ及びイギリスで数多く作られた陳列室であり、その特徴は、人工物と自然物の両方を含む幅広い分野の珍品の並列である。キャビネット内に密集して並べられた様々な種類のアイテムの集合が、cabinet of curiositiesという一つの驚異の空間を作り上げている。また、同時代イギリスでは、cabinetの語をタイトルに配して、キャビネット内のアイテムのように様々な物事や概念についての記述で書物を埋め尽くし、cabinet of curiositiesにおける空間構築の手法をメタファーとして使用する書物も多く出版された。同時代の旅行記における異国の地の描き方をこのようなcabinet of curiositiesに見られる視点から解釈すると、雑多な記述の一つ一つは、異国の街を旅行記中で再現するアイテムのように働き、不揃いな記述の並列、集合により、全体として一つの街の空間を描き出すことに成功していると読み直すことが出来る。

(慶應義塾大学大学院博士後期課程)


金貸と法律家、そしてマルクス
平田 満男

グリーン=ロッジ共作の A Looking Glass for London and England (1588)は、放蕩息子の農場を抵当として不正に奪いとる悪辣な金貸を描いている。訴訟になれば判事と弁護士にワイロを遣って裁判には勝つ。このプロットは17世紀の写実的な経済犯罪劇の定型になり、特にミドルトン劇でくり返し使われている。そのうちA Trick to Catch the Old One(1605)を改作したマッシンジャーのA New Way to Pay Old Debts(1625)の主人公Sir Giles Overreachは、弁護士と判事を雇って悪事をくりかえす確信犯的な悪徳金融業者であり、この初期金融資本家の歴史的位置づけが問題とされるのだが、Michael Neillは『共産党宣言』を引用して彼を「ブルジョアジー」の先駆的存在と見なしている。(Putting History to the Question, 2000)

だがこの金貸が「ブルジョアジー」であり得ない事は『共産党宣言』につけたエンゲルス自身の注によって明らかである。また、この芝居の成立年(1625)と『共産党宣言』(1848) の間の二百年を超える時間的隔たりを考えれば、Overreach をブルジョアジーの「先駆者」とする事も時代錯誤の誤りとしなければならない。

さらに反マルクス史観の歴史書(Peter Laslett, The World We Have Lost, 1983)からの孫引きと断って、Neillが使う『共産党宣言』の引用部からは、重要な部分が無断削除されている。Neillが理想とする金銭ではなく互恵的サーヴィスによって人間関係が成立していた時代にも、実際には富裕な家父長による「宗教の幻影に覆い隠された」搾取が存在しており、ブルジョアジーはその搾取を「公然たる、恥知らずの、直接な露骨な搾取におきかえた」にすぎないとする部分が意図的に抹消されているのは、歴史文献引用のルールを無視した、学問的には許されない行為である。

英米の研究者のマルクス主義文献理解は概して浅薄であり、新歴史主義・新マルクス主義の流れにつく論文には歴史の現実を無視した意図的な誤読も多いので、彼らの安易な歴史文献解釈に惑わされないようにする必要があると考える。

(東北大学名誉教授)


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セミ ナ ー (要旨)


《セミナー 1 》  エリザベス朝後期の文学と政治風土

歴史劇の面白さ
  • コーディネーター:佐藤達郎 (日本女子大学准教授)
  • メンバー:
    • 小田原謠子(中京大学教授)
    • 本多まりえ(早稲田大学大学院博士課程/日本学術振興会特別会員)
    • 吉村征洋(立命館大学講師)
    • 団野恵美子(姫路獨大学准教授)
    • 土井雅之(学習院大学非常勤講師)

本セミナーでは、エリザベス朝後期の文学作品―特にMary Stuartの処刑以後の詩と演劇―と同時代の政治風土との関わりについて、議論が展開された。扱われたテーマは多岐にわたるが、強いて本セミナーのキーワードをあげるとすれば、(A) 政治的アレゴリー(各メンバーに共通)、(B) Essex伯(小田原、吉村、土井、本多、佐藤)、(C) Elizabeth表象(小田原、団野、佐藤)、(E) Mary Stuart (小田原、団野、本多、佐藤)、(D) Protestantism (小田原、本多)、(E) Republicanism (吉村、佐藤)、(E) James VIと王位継承問題(土井、本多)、といった項目が挙げられるかと思う。発表後、エリザベス朝後期における検閲の問題、 Lylyの作品におけるElizabeth批判の可能性、Republicanismの定義(フロアーからの質問)、政治的アレゴリーと大衆演劇、ChettleとEssexとの関係などについて討議された。特に、「大衆演劇において、政治的アレゴリーは、観客にどの程度理解されたのか」という問いは、今後の課題となった。限られた時間の中で、多種多様なテーマを扱ったため、ひとつひとつの問題について未消化に終わった面もあったが、エリザベス朝後期の不安定かつダイナミックに揺れ動く政治状況とそれぞれの作品の根底に横たわる力が密接に連動する様子を、垣間見ることができたのではないかと思う。各メンバーの発表の要旨は以下の通りである。



(1) 小田原 「SpenserとEssex:The Faerie Queene V, VI を中心に」

LeicesterとSidneyなき後その後継者と目されたEssexは、国内での継続的教会改革と外国での積極的な反カトリック政策を求めるプロテスタントから庇護を求められていた。

The Faerie Queene 五巻 (1596) のMercillaの宮廷のエピソードとBourbonの救援は、歴史的にはメアリーの処刑、低地諸国へのLeicesterの派遣、IrelandへのGreyの派遣、EssexのHenry IV支持を表すものとされる。慈悲深いと賞賛された女王の宮殿で柱に舌を釘付けにされた詩人の姿は、出版の検閲と処罰を表すものと取れる。女王を寿ぐ形の詩に表しにくい女王への不満は寓意という形で表され、それはElizabethの生存中は出版されなかったThe Mutabilitie Cantosにつながる。

昨日の敵と手を結ぶという欧州の変わり行く政治思潮の中で、Spenserはプロテスタンティズムを歌う作品を書いた。David Norbrookは、五巻全体がプロテスタント的世界観を表し、Essexとそのサークルへの鼓舞だと指摘している。Collin Burrowの指摘のように、Spenserの歴史的寓意は彼の世界を変えるように意図されていて、彼は1570年代後半から80年代初めの積極的なプロテスタンティズムの介入への熱い郷愁をもって1590年代に書いたのではないだろうか。

(2) 団野 「Endimion に見られるElizabeth 表象」

John LylyのEndimion (1588) がアレゴリーであり、Cynthiaは月の女神としてElizabethの表象であることは明白である。Endimionが月に惚れ、魔法で眠らされる筋書きからは、Alciatiのエンブレム通り、身分違いの恋を諫めプラトニックな愛を強調する。Eumenidesが泉の宣託を受けるエピソードは、友情の優位性だけでなく、Cynthiaの移り気 (inconstant) への弁護として、満ち欠けする月は常に丸いことを提示し、Semper EademをモットーとしたElizabethを擁護した。Cynthiaの恋敵TellusをMary Stuartと見る場合、EndimionをLeicester伯とすれば、秘密結婚をしたのもElizabethへの強い愛情を隠すためという名目が立ち、LylyのパトロンだったOxford伯だとすれば、カトリック信仰を捨てても女王に従うという誠実さを訴える手立てと考えられる。哲学者Gyptesの口を借り、LylyはElizabethに仕えたい意志を伝えながら、Endimionの夢では高位の者が下々の者に命を狙われる言説を繰り返し、その状況下でのEndimionの献身を我が身に譬える。Lylyは明白な政治的スタンスは避けつつも、無数の解釈を可能にするような人物像を作り出した。

(3) 吉村 「エリザベス朝後期における共和主義思想 ― Julius Caesar

本発表では、ShakespeareがJulius Caesar (1599) において、共和制ローマの終焉世界を描いたことと、エリザベス朝後期に行われた共和主義イデオロギーに対する政府の弾圧との連関を指摘し、作品中にShakespeareのエリザベス朝政権に対する揶揄が暗示されていることを指摘した。特にShakespeareと同時代の共和主義イデオロギーを持った作家たちが拷問を受け、さらに暴君殺害など共和主義イデオロギーを助長するような書物を焚書処分にするなど、Julius Caesar が執筆・上演された1599年頃は、政府の取締りが厳格化された時期だった。この政治世界は、Julius Caesar で描写される世界と同じく、共和主義イデオロギーに対して反理想的な状態にあったと言える。この類似性は、Shakespeareがこの時期に古代ローマを舞台にしたJulius Caesar を執筆した意図を解明するヒントを示唆しているのではなかろうか。

(4) 土井 「Richard II に響く近未来への警鐘」

Shakespeareが、Richard II (1595)という題材を、時に王を退位させるという一点にのみ注目が集まる題材を取り上げたのは、現政権への反発心からよりも寧ろ近未来への警戒心からではなかったかと思われる側面がある。後継者問題に揺れるEnglandに於いて、SpainのInfantaを推す一派とJames VIを望む一派のそれぞれが行った対立候補への誹謗中傷に目を通すと、民衆が新王に対し抱いたのは期待ではなく不安であったと考えられる。彼らは、Englandを我が物顔で闊歩する暴君誕生の可能性や、一方が然るべき手続きでElizabethの後継者となっても、他方が継承権を主張し続けることで、国内に混乱が生じる可能性を否定出来ずにいたであろう。Richard II で作り上げられる、史実よりも数段格の上がった暴君Richard像と、それを打倒するも正統な後継者にはなれないBolingbrokeが齎す王位継承権を巡る争いは、確定しない次期国王の姿に怯え、継承後の混乱を案じる、エリザベス朝後期の文脈の中でこそ大きな衝撃を与えるものではなかったろうか。

(5) 本多 「Henry ChettleのProtestaitism ― The Downfall and Death of Robert, Earl of Huntington, Sir Thomas Wyatt をめぐって」

Henry Chettleは、Anthony Mundayとの共作The Death of Robert, Earl of Huntington (1598)、Thomas Dekker等との共作Sir Thomas Wyatt (1602)などの作品で、反カソリック・反ステュアートという態度を暗示しているが、セミナーでは上記作品におけるChettleのこうした政治・宗教的見解を論じた。The Death は、The Downfall の続編で、この二作品はロビンフッド劇とみなされているが、The Death は、早々にRobert(Robin)の死を描き、暴君JohnのMatilda(Marian)への欲望を中心的プロットとすることから、ジョン王劇の系譜と言えよう。両作品は、カソリックの聖職者の腐敗を通し、カソリックを批判しているように思われる。とりわけThe Death でJohnが聖職者を買収し、Matildaを得ようとする下りは、Johnとカソリック教徒との密接な関係を示すと共に、王による政治と宗教の支配を示すことから、次期イングランド王後継者候補一位であったJamesに重ねられると考えられる。Sir Thomas Wyatt では、プロテスタントの軍人でMary TudorとPhilip of Spainとの結婚に反対するWyattが、Maryに対し反乱を起こすが、失敗し処刑される。しばしば指摘されてきたようにWyattはEssex伯と重ねられるであろうが、ここではさらに、専制的で無慈悲でスペインと結びつくカソリックの君主Maryの描写に、次期後継者候補のJamesに対する危惧も暗示されていると考えられる。

(6) 佐藤 「David and Bethsabe 考 ― PeeleとEssex」

George Peele, David and Bethsabe (1593-4推定)は、David=Elizabethを暗示させながら、Weak QueenとしてのElizabethに対する批判を内包している。Davidの表象に王権批判をしのばせるこの手法は、中央政府に不満を抱く貴族たちが、自らの"discontent"を表明する際に用いた常套手段であった。David and Bethsabe の執筆時、恐らくPeeleは「EssexによるElizabeth(Weak Queen) 批判」という政治状況を相当意識していたと推定される。今回の発表では、PeeleとEssexのpersonal connectionを考察しながら、この作品におけるElizabeth批判というテーマを、当時Essex circleの間で流布していたNeostoicismとの関連から考察した。

(文責:佐藤 達郎)




《セミナー 2 》  シェイクスピア上演・上演研究の今

ミドルトン ——マネー・セックス・ゲームの劇空間——
  • コーディネーター: 小林かおり(同朋大学准教授)
  • メンバー:
    • 末松美知子(群馬大学教授)
    • 古屋靖二(西南学院大学教授)
    • エグリントンみか(日本学術振興会特別研究員)
    • 佐藤由美(富士常葉大学准教授)
    • ダニエル・ガリモア(日本女子大学准教授)
    • 阪本久美子(日本女子大学准教授)

シェイクスピア上演・上演研究の今

シェイクスピア劇を上演されたものとして研究するようになってすでに半世紀が経とうとしている。初期の上演研究は劇評や写真などの言説を通して過去の上演を記録として残すことにあった。しかしながら、最近では、記録としての上演研究は姿を消し、ポスト・コロニアリズム理論、グローバル理論、パフォーマンス理論なども援用されるようになってきている。

また、英国のシェイクスピア上演よりもローカルな上演に焦点があてられているのも最近の特徴である。英国詩人シェイクスピアや「本場」英国のシェイクスピア上演が持つ権威を解体しようとする動きが顕著になり、非英語圏におけるシェイクスピア上演に注目が集まっている。しかし、日本のシェイクスピア上演を語るさいに、英米圏の上演研究のパラダイムをそのまま援用してもよいのだろうか。私たちが考えるべき問題は多々ある。

本セミナーでは国内外のシェイクスピア上演の現在の状況を確認したうえで、上演研究のパラダイムの今、今後の方向性を見極めていく試みとして企画したものである。結果、日本のシェイクスピア上演を語る新たなパラダイムを探る好機となった。


本セミナーでは、以下の三点に留意して、セミナー前の準備、および当日の発表を行った。第一に、シェイクスピア上演研究をひとつの学問体系としてとらえることに重点を置いた。そのために、英米圏のシェイクスピア上演研究の歴史、パフォーマンス・スタディーズの動向、国内外の上演史など、各メンバーが分担してマッピングを行った。既存のパラダイムや上演史の確認は念入りに行ったつもりである。そして、上演研究、上演史全体の流れをメンバー全員が把握したうえで、各々の発表に臨んだ。既存のパラダイムや上演史を確認する作業は、日本のシェイクスピア上演の語り口を模索する第一歩となったように思う。第二に、上演に関する従来の発表は個別の上演を紹介するケース・スタディーになる傾向が強いが、今回のセミナーの発表では個々の上演を何らかのコンテクストと関連させて考察することに重点を置いた。そして、第三に、既存のパラダイム、もしくは、新たなパラダイムを援用する場合、具体的な上演を示して語り口を例示することを試みたつもりである。


古屋は日本のシェイクスピア上演の一事例として、蜷川幸雄の初演出となる歌舞伎様式の翻案劇『NINAGAWA十二夜』(2005、2007年公演)について、原作『十二夜』との主要な相違点を踏まえながら、舞台と演出の実態を検証した。歌舞伎の舞台、衣装や演技、言い回しなど伝統的な様式を取り込み、その様式化された舞台に通低する視覚的舞台美を打ち出す蜷川演出は、現代に生きる祝祭的喜劇性をも取り込んで、新機軸を打ち出し成功した翻案歌舞伎として評価した。


末松は、日本のシェイクスピア上演史のコンテクストにおいて個別の上演を議論する試みとして、歌舞伎『NINAGAWA十二夜』について、上演史という縦軸とインターカルチュラリティという横軸の双方の観点から考察した。具体的には、伝統芸能の「様式」や日本的視覚要素を作品へ組み込む手法から蜷川作品を三タイプに分け、それぞれのスタイルの違いと手法の変化を促した要因を分析し、『NINAGAWA十二夜』に至る蜷川のシェイクスピア上演史を検証した。


佐藤は、『NINAGAWA十二夜』の観客が、上演のどの要素を好ましいものと解釈したかを考察した。その過程には観客論を扱う際の問題が伴った。近年インターネット上で意見を公表する一般観客が増加しているが、その意見は実証性な検証にどの程度有効かという点である。それを考慮したうえでも、専門家や一般観客の意見全体から、この翻案劇に対する観客の視座が伺える。それは、原作は上演の一要素に過ぎず、この上演が歌舞伎作品として成功したかどうかが観客にとって最も重要であったということである。


阪本は、男女の性が交錯した「異性配役の身体」の上演における具現化を、日本における女装配役の例から論じた。歌舞伎版『十二夜』では、異性装の琵琶姫/獅子丸が男女の身体を同時に見せるという歌舞伎にしかできない手法を用いるが、役者菊之助の身体が強調されるあまり、役の身体が縮小されている。いっぽう、同じく蜷川幸雄演出の「オールメール」シリーズでは、若い男優たちが役と役者の身体の二層を同時に見せて、ジェンダー・アイデンティティのつかめない魅力的な身体を構築している。


ガリモアは、日本の翻訳の問題を取りあげた。この20年の間に、松岡和子などの翻訳者によって、驚くほど多くの新しいシェイクスピア翻訳が発表されている。日本におけるシェイクスピアという議論においては、上演に関する研究が翻訳論よりも重視されるようになってはいるが、新訳、とくに舞台向けの訳の分析の重要性をガリモアは主張した。


エグリントンは、パフォーマンス・スタディーズ(PS)の発展経過をマッピングし、グローバル化/ローカル化したシェイクスピア作品の上演を、いまだに欧米中心、西高東低のPSのパラダイムを用いて読み解く際の問題点を踏まえた。そのうえで宮城聰演出『ク・ナウカで夢幻能なオセロー』とイ・ヨンテク演出『夢幻能オセロー』を例に、インターカルチュラリズム理論が囚われがちなニ項対立を内破し、シェイクスピア上演とPSを取巻くパラダイムを西の視点から/へと軌道修正することを試みた。


小林は、英米圏のシェイクスピア上演研究のパラダイムを踏まえたうえで、日本のシェイクスピア上演を語るパラダイムの模索を試みた。栗田芳宏演出『冬物語』を例にとり、インターカルチュラリティの視点、 W.B. Worthenが提唱するドラマティック・パフォーマティヴィティの視点から上演を分析した。また、日本のシェイクスピア上演を語る際、上演と社会的・文化的コンテクストとの相関性を考察する必要性があることを指摘した。


個々の発表に続くディスカッションでは、日本のシェイクスピア上演研究の新たなパラダイムの可能性について討論した。既存の西洋の理論を日本の上演に当てはめる以外に、日本のシェイクスピア上演を語る方法はありえるのか―今回のセミナーの主眼について議論は進んでいった。この問題に対して、西洋のパラダイムを援用して日本独自のパラダイムを作ることはできるのではないのか、また、まったくゼロから作り上げるのは不可能であるし、不要なのではないかとの意見が交わされた。既存のパラダイムを発展させ、日本のシェイクスピア上演の固有性を追求すべきとの結論が導き出されたが、今後、検討すべき点として具体的に以下の点が指摘された。

第一に、翻訳、翻案のテクストの問題をより深く考えるべきである。翻訳と原典との関係、「シェイクスピア」権威との関係、上演・演技と翻訳の関係について今後さらなる検討が必要である。翻訳は日本のシェイクスピア上演に自由を与えるのだろうか。また、翻訳と日本の言語、文化、社会との関係についても考えるべきである。たとえば、日本の翻訳は日本の文化を反映しているのだろうか。

第二に、日本のシェイクスピア上演と伝統演劇の融合の問題をどうとらえるのか。伝統演劇と現代の上演の関係についての考察は、英米圏のシェイクスピア上演研究にはほとんどみられないものである。エグリントンは、伝統とコンテンポラリーの関係やインターカルチュラリティの問題は演出家など実践の場で活躍する人たちのあいだではさらに深い議論が進んでいると指摘し、我々研究者は彼らの声を文字化するべきであると訴えた。

そして、第三に、上演と社会的・文化的コンテクストとの相関性の検討である。これは議論として難しいが、やはり、文化的・社会的コンテクストと日本の上演を関連させて語るべきではないだろうか。たとえば、なぜ、これほどシェイクスピアが日本で上演されるのか?なぜ、今、歌舞伎シェイクスピアなのか?能シェイクスピアなのか?伝統芸能に立ち返るのはなぜか?バブルの崩壊、経済不況、格差社会、グローバル化社会、ポップカルチャーの隆盛などと関連させて論じるべきなのだろうか。これと関連して受容や観客論の問題も取りあげるべきである。たとえば、蜷川幸雄演出のシェイクスピア上演の流行を語る場合に、観客論を外して語ることは可能なのだろうか。

また、個々の上演をケース・スタディーとして提示するのではなく、何らかのコンテクストのなかに位置づけて語る重要性を再確認すべきである。上演史、ほかの現代劇、また、ほかのアジアの上演との絡みで検討するのは今後、必携であろう。

ディスカッションの後、フロアから様々なご意見をいただいた。まず、日本のシェイクスピア上演を語る際に、女性の観客が多い点を論じるべきであるとのご意見をいただいた。また、日本独自のシェイクスピア上演研究の可能性を探求する試みは、エスノセントリシズムに陥る危険性が高いことを指摘してくださった研究者もいた。もっともである。いっぽう、伝統芸能とシェイクスピア上演の融合を考える際に、シェイクスピア研究者だけではなく、伝統芸能研究者側からの意見も取り入れるとよいのではないかとの有益な提案もいただいた。


今回のセミナーは準備段階からチームワークが良く、既存のパラダイムや上演史を踏まえるという膨大な作業をこなしただけではなく、メール上の討論、打ち合わせでの討論、反省会での歓談等も活発なものであった。今後は、今回の各々の発表を発展させ、上演史や上演研究のマッピング、詳細な参考文献を加えた論集を出版する予定である。私たちの試みが日本のシェイクスピア上演を語るパラダイム模索への貴重な一歩となることを望んで歩み続けるつもりである。

(文責:小林かおり)



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