シェイクスピア学会

第36回シェイクスピア学会

 

プ ロ グ ラ ム

資   料

 

 

1997年10月11日(土)/12日(日)

会場:福岡大学 七隈キャンパス

(〒814-80 福岡市城南区七隈 8-19-1)

 

主催:日本シェイクスピア協会


案 内

 

* 会場へは、JR博多駅(博多口)よりバスで約40分、「福大前」にて下車と
 なります(詳細は巻末の「交通案内図」をご参照下さい)。タクシーの場合
 は、JR博多駅および天神地区から福大まで約2,000-2,500円、福岡空港か
 らは約3,500円かかります。空港からJR博多駅までは地下鉄が便利です。

* 学会での開会式、講演、研究発表、セミナーは、すべて「七隈キャンパス」
 内の「A棟」で行なわれます(「高宮キャンパス」ではありませんのでご注
 意下さい)。

* 受付は「A棟」の入口で開会の 30分前から始めます。本年度会費未納の会
 員と新入会員の方は、8,000円(学生会員は 5,000円)をお支払い下さい。

* 講演は一般公開です。研究発表、セミナーへの参加は会員に限られますが、
 会員の紹介があれば一般の方も出席できます。

* 懇親会へのご出欠を同封のハガキで9月20日までにお知らせ下さい。ご家族、
 ご友人のご同伴を歓迎します。なお、懇親会会費は、当日(10月11日)あら
 かじめ学会会場受付で申し受けます。

* 12日(日)の昼食については、学内の食堂(「文系センター棟」16階)が午
 前11時30分から午後2時まで営業しますのでご利用下さい。

* 11日(土)、12日(日)の学会会場への連絡先:11日(土)の午後3時まで
 は、電話 092-871-6631 内線 2213(福岡大学人文学部共同研究室)、それ
 以降は 092-871-6670 内線 2520(A棟会議室)となりますが、緊急の場合
 に限って下さい。


* 研究発表およびセミナーに参加される方へ

 ハンドアウト等の資料は、あらかじめ十分な枚数をご用意下さい。不足分が
 出ても会場校では複写することはできません。また、資料を前もって会場校
 に送ることは、混乱を生じる場合がありますのでご遠慮下さい。

 

 

日本シェイクスピア協会

〒101 東京都千代田区神田駿河台2-9 研究社ビル501
Phone/Fax 03-3292-1050
振替口座 00140-8-33142


 


             プ ロ グ ラ ム

 

10月11日(土)

 

13:00[A棟地下1階 AB01]

開会の辞   日本シェイクスピア協会会長 玉泉八州男

挨  拶     福岡大学学長     石田 重森

フォーラム   (司会)総務 楠  明子

 

14:00 研究発表

第1室[A棟6階 A615]

                司会:九州大学教授 太田一昭

  1.『十二夜』における「手紙」
    ──断絶されたコミュニケーションの考察

     上智大学大学院博士課程 武岡由樹子

  2.国王の優位を脅かすマイナー・キャラクターたち
    ──『ヘンリー五世』の言語

     摂南大学専任講師 齋藤安以子

 

                司会:福岡大学教授 柴田稔彦

  3.作者の意図──イギリス・ルネサンスの戯曲本の場合
      千葉工業大学助教授 野上勝彦

  4.シェイクスピアを読んだ17世紀前半の読者──明星大学図書館所蔵
    ファースト・フォリオの欄外書き込みを中心にして

      明星大学教授 山田昭廣

 

第2室[A棟6階 A602]

司会:中央大学教授 Graham Bradshaw

  1.Peele's Subversive Dramaturgy: The Case of David and Bethsabe

    国際基督教大学大学院博士課程 本山哲人

  2.On Reading The Tempest Autobiographically:

  Ben Jonson's The New Inn

      日本女子大学専任講師

  Lecturer, The University of Bristol John Lee

司会:東京経済大学教授 川井万里子

  3.『フェヴァシャムのアーデン』における「語り手」の潜在と顕現

   鹿児島経済大学専任講師 小林潤司

  4.Jonson Shakespeare

   名古屋大学教授 山田耕士

 

第3室[A棟6階 A617]

司会:帝塚山学院大学教授 今西雅章

  1.『シンベリン』に見る Pax Britannica の幻像

 関西学院大学大学院博士課程 前原澄子

  2.Caliban のすばらしい新世界

──The Tempest における Caliban 表象について

      弘前大学助教授 田中一隆

 

司会:西南学院大学教授 八木 幹

  3.呼びかけのあやうさ──The Winter's Tale の場合

高知大学教授 村井和彦

  4."In this wide gap of time"──『冬物語』の時間論

杏林大学教授 川地美子

 

 

 

18:00〜20:00 懇親会

 会場:福岡大学七隈キャンパス内「文系センター棟」16階スカイラウンジ

    (巻末の「七隈キャンパス案内図」をご参照下さい)

 会費:6,000円

 

 *懇親会終了後、天神および博多駅方面へのお帰りには、市内バス(「福大前」

  より)をご利用下さい(p.14 バス時刻表)。また、タクシーを「文系センター

  棟」入口まで呼ぶこともできます(南部タクシー 電話 092-871-2386)。


 

10月12日(日)

 

10:00 講演[A棟地下1階 AB01]

     司会:関西大学教授 藤田 実

 ルネサンスの意味を再考する

                    国際基督教大学教授 村上陽一郎

  ここでは、「近代の曙」でも、「中世の最後の輝き」でもない、ルネサン スの意味を考えてみたいと思います。スコラ哲学からは排除されてきた「プ ラトン主義」の名の下に、この時期に精力的に取り込まれた様々な思想が、 自然観、人間観に与えた影響と、その意味について考えるところを述べたい と思います。

 

11:30〜13:00 昼食

 「文系センター棟」16階スカイラウンジ(11:30〜14:00オープン)

 

13:00〜16:00 セミナー

セミナー1[A棟6階 A601]

 シェイクスピアと大陸のルネサンス

   司会:高田康成(東京大学教授)

   メンバー:大谷伴子(明治学院大学非常勤講師) 川浪亜弥子(日本医

   科大学非常勤講師) 冨田爽子(拓殖大学教授) 廣田篤彦(東京大学

   助手)

 

セミナー2[A棟6階 A603]

 シェイクスピアと映画

   司会:荒井良雄(駒澤大学教授)

   メンバー:青木信義(山梨大学教授) 尾崎 寔(同志社女子大学教授)

   狩野良規(青山学院大学助教授) 桑子順子(文京女子短期大学助教

   授) 平 辰彦(桐朋学園大学短期大学部非常勤講師) 高橋与四男

   (東海大学助教授) 広川 治(駒澤大学非常勤講師) 藤原博道(青

   山学院大学非常勤講師) 森 祐希子(東京農工大学助教授)

 

 

セミナー3[A棟6階 A615]

 地理学、天文学、魔術──エリザベス朝の物理的世界

   司会:中野春夫(埼玉大学助教授)

   メンバー:荒木正純(筑波大学教授) 大西洋一(秋田大学助教授) 

   小沢 博(東北大学助教授) 山田雄三(大阪大学専任講師) 由井哲

   哉(東京工業大学専任講師)

 

セミナー4[A棟6階 A616]

 John Marston とジェイムズ朝演劇

   司会:佐々木和貴(秋田大学助教授)

   メンバー:小野俊太郎(成城大学非常勤講師) 柏木恵子(青山学院大

   学大学院博士課程) 梶 理和子(山形県立保健医療短期大学専任講師)

   吉原ゆかり(筑紫女学園大学助教授)

 

セミナー5[A棟6階 A617]

 編纂史に見る Hamlet

   司会:住本規子(明星大学助教授)

   メンバー:大矢玲子(慶応義塾大学専任講師) 金子雄司(中央大学教

   授) 境野直樹(岩手大学助教授) 野口忠昭(立命館大学助教授)

         


 


[資 料]

研究発表要旨

 

 『十二夜』における「手紙」

 ──断絶されたコミュニケーションの考察

 

               上智大学大学院博士課程 武岡由樹子

 『十二夜』の中には「手紙」が非常に多く登場する。極めて興味深いことに、これらの手紙が登場するとき、必ずといっていいほど、コミュニケーションは成立しないで、失敗に終わる。手紙は適切に配達されなかったり、誤読されたり、第三者の意図的介入にあったりして、コミュニケーションは歪められるのである。手紙によるこれら「断絶されたコミュニケーション」(discommunication)を劇中で、舞台上で展開することは、どのような意義があるのだろうか。また、discommunicationを描く上で、「手紙」が用いられなければならなかった理由は何であろうか。

 さらに、手紙を用いたdiscommunicationは『十二夜』以外の作品にも数多く現れる。シェイクスピアの劇作人生を通しての関心事であったと思われる。「メタcommunicative」な作品として、シェイクスピア劇を考察していきたい。

 

 国王の優位を脅かすマイナー・キャラクターたち

 ──『ヘンリー五世』の言語

 

        摂南大学専任講師 齋藤安以子

 雄弁をたたえられる国王ヘンリー五世は、通常、話す相手に対して圧倒的優位に立っている。彼の発言は誰にも遮られることなく続く。他者の発言を促したり、発言の内容までコントロールできる、つまり会話の駆け引きを仕切るのはヘンリー王である。ところが、劇中では社会階級や言語能力の劣る人々が、ヘンリーの優位を脅かす。ヘンリーが優位を保てなくなる相手は、兵士のウィリアムズとフランス王女である。両者とも、「王の変装」や「外国語」「求婚」といった劇の仕掛けゆえに主としての特権を失ったヘンリーを相手に、ヘンリーと大量に言葉を「交わす(interact)」。体制側の人間が外国人のために自ら相手の言語を話すという、シェイクスピア劇の中でも特異な状況が生じるなど、ヘンリーが例外的な設定におかれた場合の言語上の勢力争いを、実証的に論じていきたい。

 作者の意図──イギリス・ルネサンスの戯曲本の場合

 

   千葉工業大学助教授 野上勝彦

 イギリス・ルネサンス演劇の本文研究で難題のひとつとされているのは、作者がどのような意図で作品を書いたかという問題である。作者本来の意図とか作者最終の意図と呼ばれており、どちらに重きを置くかで作品の性質が決ってしまうこともある。またいくつかの改訂稿がある場合は、各次稿のうちどれを選ぶかも、作品の評価を決定してしまう。1512-1642年間で626編現存する戯曲本をみると、400編以上が上演や本文に関して何らかの言及をしているが、それらは大きく5つに分類できるようだ──

 1.上演を目的として刊行された戯曲本(未上演)
 2.上演されなかったことを宣伝した戯曲本(未上演)
 3.作者も劇団も与り知らないところで出版された戯曲本(既上演)
 4.上演された通りを詠って発行された戯曲本(既上演)
 5.作者あるいは劇団が読者用に出版させた戯曲本(既上演)

これらをよく見ていくと、作者の作品に対する意識や姿勢がかなり浮き彫りになる。

 

 

 シェイクスピアを読んだ17世紀前半の読者──明星大学図書
 館所蔵ファースト・フォリオの欄外書き込みを中心にして

 

     明星大学教授 山田昭廣

 明星大学児玉記念図書館が所蔵するシェイクスピアのファースト・フォリオの一冊(MR774)には、同時代者の手になる、几帳面な欄外書き込みがある。どちらかと言えば、悲劇と歴史劇に集中している。喜劇では、MVAYLI, AWW, WTなどに、比較的集中している。込み入った台詞を手短かにまとめた覚え書きもあれば、シェイクスピア本文そのままの書き写しもある。戯曲のほとんど毎ページにそんなメモを書いていながら、この読者は、作品についても、作者についても、批評めいたことは、何も書かなかった。覚え書きに使われた形容詞が、時として、読者の批評的精神活動をあらわす。が、特に名場面を意識した形跡もない。何故だろうか。楽しみながら学ぶ、という当時のおおらかな文学観のためだろうか。それとも、われわれが芝居ずれ・批評ずれしたためだろうか。研究発表を聞いてくださる方々の教えを受けたい。

 

 

 Peele's Subversive Dramaturgy: The Case of David and Bethsabe

 

          国際基督教大学大学院博士課程 本山哲人

                         Motoyama Tetsuhito

 

   While the recent revival of interest in the authorship of Titus Andronicus seems to have confirmed that George Peele was Shakespeare's collaborator, the critical reception of Peele's own plays remain tepid. For some, the chief value of his work lies in its contribution to preparing the way for Shakespeare's dramatic achievement. Others recognize the playwright's potential as a poet, but deplore his lack of dramatic creativity. Either way, the prevailing attitude seems to be to dismiss Peele as a dramatist in his own right.

   However, a look at David and Bethsabe, a play which deals with the playwright's interest in both the political and the romantic, illuminates an acute awareness of the audience and their relationship to the play. Peele invests the imagery, the stage business and the structure with equivocal and often contradictory significance. These three features whet the audience's expectations and invite them to bestow definite meaning on the play, as do the characters dictated by their own immediate needs: at the same time, the ambiguity of these features betrays and eludes their interpretations. It is perhaps in his subtle construction of the language, action and plot, and in his endeavor to confirm the audience, that Peele exercised his ingenuity as a playwright.

 

 

 

On Reading The Tempest Autobiographically: Ben Jonson's The New Inn

 

日本女子大学専任講師

Lecturer, The University of Bristol John Lee

 

   Autobiographical readings of The Tempest (1611) are usually dated from the early nineteenth century; Stephen Orgel, in the recent Oxford edition of the play (1987), takes Thomas Campbell's essay of 1838 as the first example of such an approach. This paper argues that date to be some two hundred years too late; Ben Jonson's The New Inn (1628), it is proposed, is the first autobiographical reading of The Tempest. In The New Inn, Jonson advances a reading of Prospero as Shakespeare, and The Tempest as his valedictory summing-up of his career -- and does so in order to lay out his claim to be the truer Prospero. This paper, then, in teasing out the relationship between these two plays, also explores the importance of Shakespeare, or rather Jonson's construction of Shakespeare, to Jonson's sense of his own literary and dramatic identity.

 

 

 

 『フェヴァシャムのアーデン』における「語り手」の潜在と顕現

 

    鹿児島経済大学専任講師 小林潤司

 『フェヴァシャムのアーデン』(1592年刊行)に主人公の腹心として登場するフランクリンなる人物は、粉本と覚しいホリンシェッドの『年代記』には、対応する人物が見当たらないのであるが、観客の受容の姿勢を誘導する潜在化された「語り手」として機能している。この戯曲の命は、結末を予見しつつ、巧みに仕組まれたドラマティック・アイロニーを楽しみながら、同時にこの予見を棚上げしてサスペンスの効果を享受する、という観客の二重の観劇意識によって支えられており、フランクリンによって劇中に設定された、仮構の「無知」の視点がこの二重の意識を保証しているのである。「劇中人物」の擬態によって潜在化されていた「語り手」は、劇の末尾で納め口上を与えられることによって、初めて観客を凌ぐ「知」を有する「語り手」として顕現する。観客の二重の意識はここで一つに統合され、観劇経験は結束性を持った一つのフォームを獲得するのである。

 

 

 JonsonのShakespeare観

 

 名古屋大学教授 山田耕士

 JonsonがShakespeareのFirst Folioによせた有名な詩 "To the memory of my beloued, The AVTHOR MR. WILLIAM SHAKESPEARE: AND what he hath let vs" については、"An Insolent, Sparing, and Invidius Panegyrick" とする DrydenのShakespeare諷刺説と、"I cannot for my own part find any thing Invidious or Sparing in those verses, but wonder Mr. Dryden was of that opinion." とするPopeの称賛説との間にあってさまざまに解釈されてきた。私はこの発表で、Greene(1592)からJonsonに至るallusionsの流れの中において見た場合、Jonsonの詩のどのような点があらためて注目されるのか探ってみたいと考える。

 

 

 『シンベリン』に見るPax Britannicaの幻像

 

  関西学院大学大学院博士課程 前原澄子

 『シンベリン』において、ブリテンとローマの和平締結はドラマの最終行為として重要な意味を持つ。ところが、それに至る動機は必然性を欠き、幕切れのインパクトは極めて曖昧である。従来の歴史主義的批評では、この劇が、平和主義を標榜するジェイムズ国王へのpanegyricか、或いはそれを装うアイロニーかの視点から、個々の「再会」と「和解」に統一的意味が与えられてきた。しかしながら、作品の歴史的コンテクストにドラマツルギーの問題を絡めた上でこれらのテーマを再考すると、いずれの前提にも疑問の余地があることが明らかになる。最終場面で唐突に実現するPax Romanaに、ジェイムズ国王の実現し得なかったPax Britannicaの幻像を見るとしたら、ブリテンとローマの和平締結にはどのような意味があるのだろうか。歴史的コンテクストとドラマツルギーの両面から考えてみたい。

 

 

 Calibanのすばらしい新世界
 ──The TempestにおけるCaliban表象について

 

                   弘前大学助教授 田中一隆

 本発表の目的はおおよそ二つある。一つは(これが本発表の主要な論点になるが)、The Tempestという作品のなかで、Calibanというキャラクターがどのように描かれているか、その表象の特質について、「ダブル・プロット構造」という枠組みを考慮しながら考察すること、そして二つめは、The Tempest におけるCaliban表象の特質を、「イギリス・ルネサンス演劇におけるマルティプル・プロット構造」という、さらに広い参照枠から考察することによって、じつは、The Tempest の Caliban 表象を支配している特質はこの作品に限定された特質ではなく、幅広い範囲のイギリス・ルネサンス演劇におけるマルティプル・プロット構造にもあてはまる、ある共通なアイディアを備えているのではないか、という論点を若干示唆することである。

 

 

 

 呼びかけのあやうさ──The Winter's Taleの場合

 

  高知大学教授 村井和彦

 呼びかけるという行為がもつ意味をThe Winter's Taleを例に考えてみたい。この作品は軽蔑語、尊敬語、尊称、そして名前そのものを使う場合といった具合にさまざまな、呼びかけ語の例を提供してくれる。
 例えば軽蔑語が親愛の情を表す呼びかけとして使われるとき、われわれには、そのことばが、逆の意味で用いられるという状況判断を求められる。しかし、作品の重要なモチーフのひとつは人間が犯す状況判断の誤りであった。
 この発表では、従来の呼格か主格かといった言語学的アプローチとは違い、われわれが日常さりげなく行なっている呼びかけるという行為とそれを解釈する際のあやうい状況を考え、文化を支えている基礎の意外な脆弱さをあぶり出してみたい。

 

 

 "In this wide gap of time"──『冬物語』の時間論

 

  杏林大学教授 川地美子

 『冬物語』には、コーラス役の「時」が登場して16年という広大な時間の間隙を埋めている。劇中、「時」は第四幕の冒頭に一度しか登場しないが、それまでの暗い悲劇的な世界を、明るい牧歌的喜劇の世界へ転換させる役割を果たしている。だが劇全体から見れば、時間への言及は、直接的というよりはむしろ間接的になされており、時間は劇的構成の背後で支配的な表象となっている。シェイクスピアの時間への意識が、悲喜劇のアクションにどのように投影されているのか、またロマンス劇の主題や人間の生成過程にどのように作用しているのかを考察し、更に季節、年齢、セクシュアリティなどの問題についても論じてみたい。

 

 

 


セミナー指針

 

セミナー1

 シェイクスピアと大陸のルネサンス

 

                   司会:東京大学教授 高田康成

 主に16世紀英国におけるイタリアの人文主義運動の受容を主題とする。なかでも、(1) 歴史に関する言説、(2) 翻訳劇、(3) 古典喜劇、を議論の柱として立てる。討論をより具体的にかつ明確にするために、シェイクスピアおよびトマス・モアそれぞれの『リチャード三世』をテクストとしてまず設定し、論者が共有しうる議論の出発点としたい。そこから、イタリア人文主義と(モアに代表される)初期英国人文主義と(シェイクスピアやホリンシェッドを含めた)後期英国人文主義の三者の関係について、特に「歴史的言説」をめぐって提起さるべき諸問題を整理する。その上で、演劇という観点から、イタリア劇の翻訳および古典ラテン劇の伝統にまつわる諸問題を扱いたい。「指針」はおよそ以上のごとくであるが、「折角ルネサンスである」という意識を忘れることなく、「何事であれ人間に係わることで興味の対象にならぬものなし」というテレンティウス的視点を大事にしたくも思う。

 

 

セミナー2

 シェイクスピアと映画

 

                 司会:駒澤大学教授 荒井良雄

 日本の学会で「シェイクスピアと映画」のセミナーが開かれるのは恐らく初めてであろうが、国際学会ではどうか? これまでの内外の研究成果の史的展望(司会)で始め、グローブ座の舞台で上演されたシェイクスピア劇と観客の関係が映画ではどんな意味をもつか(尾崎)、戦前の『真夏の夜の夢』(1935)の再評価(広川)、オリヴィエの『リチャード三世』(1955)の面白さ(青木)、独白や演説の映像化の問題点(森)、ブラナーのシェイクスピア映画(平、桑子)、黒澤作品の評価(高橋、藤原)を議論したあと、シェイクスピア映画はいかにあるべきか(狩野)を考察し、教室でいかにビデオを活用するか(尾崎、狩野)などの問題も取り上げたい。

セミナー3

 地理学、天文学、魔術──エリザベス朝の物理的世界

 

                司会:埼玉大学助教授 中野春夫

 エリザベス朝の時代にはもちろん電子顕微鏡も高性能の望遠鏡もありませんから、今日と比べれば自然に関する当時のデータは限られていました。となれば、エリザベス朝の人々は、この知識の空白を多かれ少なかれ空想や想像力で埋めなければならなかったはずです。

 本セミナーは地理学、天文学、医学、魔術など当時のさまざまな学問領域を研究対象としています。大変手強い対象ではありますが、メンバー全員の共同作業を通じて、エリザベス朝文学を支える興味深い特異な世界観、想像力、発想法をあぶり出してみたいと思っています。

 

 

セミナー4

 John Marston とジェイムズ朝演劇

 

                司会:秋田大学助教授 佐々木和貴

 論点の拡散を防ぐため、主としてThe Malcontent及びThe Dutch Courtesan をめぐって討論を進めたい。またトピックとしては、前者に関しては (1)「変装した支配者」というサブ・ジャンルの変容 、(2)「悲喜劇」というディスコースの生成、(3)「法学院」あるいは「少年劇団」という機関の影響などを、後者に関しては (1)「Dutch表象」と初期近代英国の自己形成、(2) 他者表象としての「娼婦」、(3)「娼婦表象」とシティ・コメディ、(4) 王政復古期「翻案」との連続と断絶、などを予定している。ジェイムズ朝という時代にShakespeareでもJonsonでもなくMarstonという補助線を引くとき、その演劇は果たしてどのような新しい相貌を呈するであろうか。

 

 

 

 

 

 

セミナー5

 編纂史に見るHamlet

 

                  司会:明星大学助教授 住本規子

 Q1,Q2,F1から最近のパラレルテクスト、さらにはハイパーテクストまで、編纂史に登場するHamletは実に様々な姿を纏ってきた。それはHamletのテクストがいかに複雑な問題を抱えているかを証すものだが、テクストがもつ曖昧さと、この作品及び主人公のもつ、その魅力の中核をなすと考えられる曖昧さとは、どうやら無関係ではなさそうだ。その曖昧さの少なくともある部分は、18世紀以来の折衷テクストに固有のもので、個々のルネサンス・テクストには存在しない、とも言われる。ここでは編纂史を手がかりにHamletのテクストについて考える。編纂におけるQ1の問題、版本と批評の関係、日本語翻訳とそのテクスト、俳優と版本、さらには、文化理論としての本文確立、等、様々な角度から問題点を整理してみたい。

 

 


 

              会 場 案 内

 

    10月11日(土)         10月12日(日)

開会式 A棟地下1階 AB01 講 演 A棟地下1階 AB01

フォーラム      同上 セミナー

研究発表   第1室 A棟6階   A601

    第1室 A棟6階   A615 第2室  同     A603

第2室  同     A602 第3室  同    A615

第3室  同     A617 第4室  同     A616

第5室  同     A617

 

懇親会 文系センター棟16階 昼 食 文系センター棟16階

スカイラウンジ     スカイラウンジ

 

 

会員控え室・休憩所

A棟6階 A609/610

 

 

     土曜日午後7時台・8時台のバス時刻表(「福大前」発)

懇親会終了後にご利用下さい

        

  「天 神」行

19: 00,10,20,24,31,37,49,56

20: 03,13,23,32,39,47

  「博多駅」行

19: 07,27,49

20: 15,43

  「博多駅」行
   (「天神」経由)

19: 07,18,47
 

20: 16,29,42
 

                    (現行のもの。小さな変更はあるかもしれません)


βαχκ