シェイクスピア学会

第47回シェイクスピア学会


2008年 10月 11日(土)・12日(日)

会場:岩手県立大学(滝沢キャンパス)


  プログラム
  資料: 研究発表要旨
  資料: セミナー指針

学会案内

  

プログラム



10月11日(土)13:00

開会式

[講堂]

10月11日(土)14:00-17:00 研究発表

第1室

[共通講義棟107講義室]

第2室

[共通講義棟105講義室]

第3室

[共通講義棟207講義室]

第4室

[共通講義棟205講義室]

10月11日 (土)

  • 17:30 ­- 18:45 懇親会 (軽食)
  • 会 場:岩手県立大学学生食堂(学生ホール棟)
  • 会 費:2,000円

※ 終了後、大学本部棟前から盛岡駅行きの無料貸し切りバスが出ます。ご利用下さい。



10月12日(日)10:00-12:30 特別講演

[講堂]

司会: お茶の水女子大学准教授 清水徹郎

シェイクスピア/異人たちの祭り

東北芸術工科大学大学院長 赤坂憲雄

10月12日(日)12:30-13:30 昼休み

学生食堂(学生ホール棟内)にてお弁当をお受け取りください。一般会員控え室は106講義室です。


10月12日(日)13:30-16:30 セミナー

《セミナー1》  エリザベス朝後期の文学と政治風土

[206講義室]

《セミナー2》  シェイクスピア上演・上演研究の今

[207講義室]

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【資料】 研究発表要旨



Sauny the Scot(1667)にみる新たな喜劇性について
鹿児島大学准教授 大和 高行

『スコットランド人ソーニイ』(1667)は、『じゃじゃ馬馴らし』の改作として知られる王政復古期の喜劇である。この劇では、題名の役を演じた俳優兼劇作家ジョン・レイシーの喜劇的演技に光が当るよう、従者ソーニイの役どころを大きくして、新たな「じゃじゃ馬もの」を作り出している。従来の「じゃじゃ馬もの」をどのように変更することで、レイシーは『ソーニイ』の喜劇性を高めたのであろうか。また、この改作でどのような問題に新たに焦点が当たるようになったのであろうか。これらを明らかにするのが本発表の目的である。

フレッチャーの『女の戦利品、あるいはじゃじゃ馬慣らしが飼い慣らされ』のエピローグが讃美する男女平等思想と、『ソーニイ』で唯一インドに言及がなされる箇所(5.1.161-62)の有機的つながりも明らかにしたい。


スティーヴンズとマローン─18世紀シェイクスピア全集における注釈、誤読、そして「友情」
埼玉工業大学准教授 米谷 郁子

近年の18世紀シェイクスピア校訂本研究は、(非常に荒いまとめをお許し頂くならば)ジョンソンを分析したJarvisや、ケイペル論で最終章を終えたWalshらのように、校訂史の初期を彩った個々の校訂者の仕事に焦点を当てて論じるか、もしくはde Graziaのように、同世紀の本文研究成果の結実をもっぱらエドモンド・マローンの業績に帰着させる論調のどちらかであった。本発表では、de Graziaの議論に対して与えられてきた批判をふまえつつ、Shakespeare: The Critical HeritageにおけるVickersのIntroduction等で不当な(?)扱いを受けてきたジョージ・スティーヴンズの校訂方針と注釈の扱い方に積極的な再評価を加える。敵対関係にあったとされるスティーヴンズとマローン、および両者の編んだ全集の間に存在していたある種の「友情」関係を明らかにするために、この両者が、時に「誤読」をも内包する注釈の伝統について、同質の関心を共有していた点を指摘し、同時に解釈学・批評自体の歴史性を認識していた点で先駆的存在であったことを跡付けたい。


18世紀の版本とフォリオ本への書き込み
明星大学教授 住本 規子

17世紀に出版されたシェイクスピア・フォリオの現存するコピーには書き込みのあるものが少なからず存在する。本発表では、ボドレー図書館所蔵のセカンド・フォリオとフォース・フォリオの合本(請求番号Arch.Gc.9)、および、フォルジャー図書館所蔵のサード・フォリオ(請求番号s2914 Fo.3 no.20)の書き込みについて、可能であれば画像をもちいて報告したい。どちらもThe TempestからCymbelineまですべてにわたって書き込みがあること、また、その書き込みと特定の版本とのあいだにかなり密接な関係性が見て取れること、の二点においてハンマー本の脚注とグロッサリーを丹念に手書きした明星大学図書館所蔵のサード・フォリオ(請求番号MR733)と共通した特徴をもっているコピーである。フォリオ本へのこのような読者・所有者の書き込み行動をわれわれはどのように捉えたらよいのだろうか。発表ではこの点についても触れてみたい。


Thomas Nashe, The Unfortunate Traveller 第二版(1594)の印刷と出版
慶應義塾大学教授 英 知明

本発表では、エリザベス朝の作家Thomas Nasheの散文 The Unfortunate Traveller 第二版(1594年、Thomas Scarlet印刷所)の印刷プロセスを探求し、この書物が出版されるまでに印刷所が施したメカニカルな側面を明らかにする。またこの書物の作成に関わった様々な人物たち(作家、印刷業者、出版業者ほか)が紡ぎ出す複雑な人間関係も合わせて論じる。具体的には、R. B. McKerrow編纂の全集やSTCでも不明なままの分担印刷者を特定する。また初版と大きく異なる第二版の複雑な印刷プロセスの検証、すなわちprinter's copyの分割、第二版に見られる印刷上の様々な工夫、二人の印刷業者の技巧の差異などを論じ、出版経費の試算も行う。さらにNasheの印刷本文への強い意識と印刷・出版業者たちとの関係、当時彼の周囲に居た他の人々にも目を向け、この第二版が出版された歴史的背景を考察する。


『エドワード三世』における恋愛場面と歴史記述
梅光学院大学専任講師 三浦 誉史加

ウィリアム・シェイクスピアがその執筆に関与しているとされる『エドワード三世』は、エドワード王がソールズベリー伯爵夫人に横恋慕し、彼女に不義を強要する前半と、エドワード王が王位継承権を主張してフランスに行う宣戦布告をきっかけに始まる百年戦争の後半部分で構成される。前半と後半の描写は、恋愛と戦争を互いの比喩として用いる常套手段に則っているように思われる。しかし、エドワード王を「正しい」戦争を起こす英雄として描く同劇では同時に、前・後半に共通して表れる比喩が、王が従事する戦争の正当性を損なう可能性を孕んでいる。本発表では恋愛場面が戦争場面に与える影響を見ながら、同劇における歴史記述に対する姿勢について考察していきたい。


Peele's David and Bethsabe──1590年代の聖書劇をめぐって
筑波大学准教授 佐野 髢

George PeeleのDavid and Bethsabe (1592-94) は、Peeleのキャリアの晩年に創作された政治劇であり、旧約聖書サムエル記に取材している点に特徴がある。Peeleの他の現存戯曲と同様、作品の有機的統一という面で問題を抱える戯曲であり、主筋におけるイスラエル王国統治のポリティックスと国王Davidの罪と悔悟とが、脇筋の王子Absolonの“overreaching”な振る舞いとせめぎ合う形でアクションを構成している。

本発表では、先行研究をサーヴェイした上で、David and Bethsabe全体を貫く中心的な構造と主題の在処を、Peeleの他作品との関連を中心に検証する。また、1590年代を中心とした聖書劇の創作と上演の実態調査を通して、聖書劇としてのDavid and Bethsabeの演劇史における位置付けと意味の探求を試みる。


ルネサンス演劇における演技と現実性
大阪大学准教授 中村 未樹

ルネサンス期の英国において、演劇は実体性と現実性を欠いた虚構とみなされることが多かった。しかし、一方で、演劇作品は舞台上で役者によって演じられるという点において実体性、肉体性を持つものでもある。また、16世紀末頃になって、より自然で現実に則した演技方法が推奨されることになり、舞台上の演技の迫真性、現実性が語られるようになっている。結果的に、劇場での観劇において、当時の観客は虚構性あるいは実体性・現実性という二つの次元の相反性と相互作用をより強く意識することになっていたのであり、劇作家たちはこの二重性を劇の形式と内容に組み込むことで劇が観客に与える効果を複雑なものにしようとしていたと考えられる。本発表では、The Spanish TragedyA Midsummer Night's Dreamについて、そして役者Richard Burbageについて考察しながら、ルネサンス演劇における演技とその現実性をめぐる問題について検討していきたい。


メランコリーの悪魔─Hamletにおける狂気の階層性と社会不安
東京工芸大学非常勤講師 松岡 浩史

Shakespeareは、1590年代の一連の喜劇において確立されていたステレオタイプとしてのメランコリーをはじめて悲劇の舞台にのせた。そしてそこには、体液理論上のメランコリーからは大きく逸脱した社会不安としての精神病、真の狂気が顔を覗かせている。本発表では、狂気や亡霊の問題が、Shakespeare時代のコンテキストにおいてどのような表象性を有しており、劇場という仮想空間のなかでいかにリアルなものとして描かれているかを当時の悪魔学、社会史資料を手がかりに検証したい。Hamletの劇世界の新しさは、亡霊の多層的な表象によって幻覚と現実の境界線を曖昧にされた地平にメランコリーの問題を導入し、意図的に創り出された狂気が、当時の舞台におけるメランコリーのコンヴェンションを了解していた観客の目にも境界線が見えないように表象されていることであろう。Hamletもまた、家族を扱った悲劇であり、その悲惨な死別が、当事者を狂気へと追い込んでいく物語なのだ。


ハッピーエンドのTom Thumb─Eliza Haywood 作 The Opera of Operasにおける結婚観
東京女子大学大学院博士後期課程・日本学術振興会特別研究員 撫原 華子

Eliza Haywood (c.1693-1756) のThe Opera of Operas; or Tom Thumb the Great (1733) は、Henry FieldingのTom Thumb (1730) をFielding自身が書き換えたThe Tragedy of Tragedies (1731)の改作である。Fieldingの原作からHaywoodの改作への主要な改変点としては、Thomas Arneが作曲した32曲の歌が追加されてオペラ化されたことをはじめ、結末が追加されたことや、女性登場人物の扱いが拡大されていることが挙げられる。これらの改変点のうち、本発表では結末の追加に主として注目し、この芝居の結末に垣間見える結婚観、ひいては当時の社会の結婚観に迫ってみたい。なおその過程で、Haywoodの改作の一ヶ月前に初演されたLewis TheobaldのThe Fatal Secret (1733)における結婚をめぐるプロットとの比較を試みる。このTheobaldの作品は、1614年に初演されたJohn WebsterのThe Duchess of Malfiの改作であるが、ここにおける改作点においても考察する。


『エドワード1世』:書き加えられた王妃レオノールの筋書き
明石工業高等専門学校教授 前原 澄子

ジョージ・ピールの『エドワード1世』の唯一現存するクォート版には、ト書きの不備や場面の不整合が散見することから、本筋との関連性が希薄と見なされる王妃の筋書きは何らかの理由による加筆と見なされてきた。1971年には、G.K. Dreherによって王妃の罪業に関わる一切の場面が削除され、エドワード1世のウェイルズ征服に焦点を当てた簡略版が復元されている。このように加筆以前のテキスト研究が進む一方で、現存するテキストについては未だに納得のいく解釈が示されていない。王妃の筋書きが加筆によるとしたら、それは当時の観客の需要を反映するものであった可能性が高く、一考に値する。本発表では、残酷でプライドの高い王妃レオノールの筋書きが初演当時にどのような意味を持ち得たかを明らかにすることによって、現存するテキストの統一的解釈を試みる。


贈り物と口づけと死──『アントニーとクレオパトラ』における贈与の問題
東京大学大学院博士後期課程・日本学術振興会特別研究員 北村 紗衣

本発表の目的は、『アントニーとクレオパトラ』において贈与の問題がジェンダーや政治、宗教、死などの作品の根幹をなす問題といかに密接に絡み合っているかを明らかにすることである。贈与論研究の多様な成果はシェイクスピア研究にも取り入れられているにもかかわらず、『アントニーとクレオパトラ』に登場する様々な贈与の場面に着目した分析はまだ少ない。この発表においては初期近代の贈与慣行をふまえ、アントニーの政治的失敗の一因が贈与の不成功にあることや、贈与における自律性がクレオパトラの女王としての権力を象徴していることを指摘する。また、クレオパトラの自殺の場面において贈与の比喩と古代の神々に対する信仰が結びつけられ、クレオパトラの死が古代世界の終焉を象徴する特異な歴史性を帯びた出来事として描き出されていることをも示したい。


地の果てからの来訪者と『ヴェニスの商人』
同志社大学教授 勝山 貴之

従来、初期近代の英国社会を論ずる際に、オスマン・トルコの勢力はしばしば等閑視され、イスラムの政治的・文化的影響力が議論されることは稀であった。しかし、ナビル・マーター(Nabil Matar)も指摘しているように、エリザベスはイスラム教徒たちとの友好関係を公言した英国最初の君主であった。女王は、イスラム諸国との通商貿易の拡大や、対スペイン戦略の一環としてイスラム諸国との軍事同盟の樹立を模索していたのである。こうしたイングランド外交政策におけるイスラム諸国の重要性にもかかわらず、演劇の中で扱われるイスラム教徒たちの表象は、ともすれば嘲笑や恐怖の対象として描き出されることが多い。『ヴェニスの商人』において、地の果てからの来訪者として登場するモロッコの王子の存在を再考することにより、地中海を舞台にイングランド人としての自己成型を果たそうとする当時の人々の心性を考えていきたい。


Manga とシェイクスピアが出会うとき
筑波大学准教授 吉原 ゆかり

2007年、イギリスの出版社からManga Shakespeareシリーズの刊行が始まった。アメリカのCliff Notesシリーズは、2008年mangaスタイルでの学習ガイドを出版している。他方、日本にはマンガによるシェイクスピア翻案・パロディが多数存在する。近未来に舞台を移し替えたテレビアニメ『ロミオXジュリエット』(2007)は、日本国内外で話題を呼んだ。さらに、台湾や中国で出版された漫画版シェイクスピアも存在する。高級文化であるはずのシェイクスピアと、低級文化とされるmanga(的なもの)とがメディア・ミックスし、世界規模の市場で流通しているというこの事態は、シェイクスピア研究者・教育者としての私たちに、何を語りかけてくるのだろうか。文化資本としてのmanga(的なもの)とシェイクスピアの相互交渉の持つ意味を考察したい。


“A voucher stronger than ever law could make”─『シンベリン』における書記作用とメディア・リテラシー
東京経済大学教授 本橋 哲也

『シンベリン』では、書記の力学とそれが表象する出来事や事象が、人間の身体とそれを包む衣装との狭間でせめぎあう。役者の身体上で記号の解釈闘争が行なわれ、創作当時少年俳優が演じていた女性の境界侵犯的な肉体上で、裸体上の書記作用の読解能力が階級やジェンダーによって差異化される。

イアキモーによって視姦され、その筆で書きとめられたイモージェンの肉体が経済的法的用語におきかえられ、彼女の女性的身体は男性的書記権力作用に従属する裸身に還元されるが、彼の書記行為は身体を十全に表現できないという表象不可能性につきあたる。こうしてイアキモーの叙述を読解する能力、すなわちメディア・リテラシーに関わる問いが導入されていく。

一方ピサーニオは召使という従属的な立場ゆえに優秀なメディア読解能力を生存手段とし、階級制度による構造的差異化ゆえに「手紙」の書記作用を超えた新たな関係性の次元を切り開くことができる。


近代初期イギリス旅行記におけるcabinet of curiosities的視点
慶應義塾大学大学院博士後期課程 橋 三和子

17世紀初期イギリス人によって書かれた大陸旅行記、Thomas CoryatのCrudities (1611)、Fynes MorysonのItinerary (1617)、William LithgowのThe Totall Discourse (1632)に共通して見られる様々な情報を羅列する記述をcabinet of curiosities的視点から考察する。cabinet of curiosities的な視点とは、近代初期にヨーロッパ及びイギリスで流行したcabinet of curiositiesと呼ばれる陳列室にはじまり、その他の書物にも見られる視点であり、雑多な物ごとの並列により一つの個性的な空間を創り出す手法である。本発表は、このようなcabinet of curiosities的な視点から同時代の旅行記における記述を分析し、それらを異国の地の空間を巧みに描き出すための手法と捉える。


金貸と法律家、そしてマルクス
東北大学名誉教授 平田 満男

グリーン=ロッジ共作のA Looking Glass for London and England (1588)は、放蕩息子の農場を抵当として奪い取る悪辣な金貸を描いている。訴訟になれば判事と弁護士にワイロを遣って裁判には勝つ。このプロットは17世紀の写実的な経済犯罪劇の定型になるが、なかでもマッシンジャーのA New Way to Pay Old Debts (1625)に登場するSir Giles Overreachは、「邪悪で不正な手口で財産を作るのが何よりも嬉しい」と言う、確信犯的な悪徳金融業者である。Michael Neillは『共産党宣言』を引用してOverreachを「ブルジョアジー」の先駆的存在とし、彼に使われる判事Greedyを金で「雇われる賃金労働者」とみなすが、これは意図的なアナクロニズムに基づく歴史の現実を無視した誤読であり、新歴史主義の流れにつこうとする研究者はこうした誤りを犯さぬように自戒すべきである。


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【資料】 セミナー指針



セミナー1 エリザベス朝後期の文学と政治風土

コーディネーター: 佐藤 達郎(日本女子大学准教授)
メンバー:
  • 吉村 征洋(立命館大学 嘱託講師(常勤)
  • 団野恵美子(姫路獨協大学外国語学部准教授)
  • 小田原謠子(中京大学教授)
  • 本多まりえ(早稲田大学大学院博士課程/日本学術振興会特別研究員)
  • 土井 雅之(学習院大学非常勤講師)

本セミナーでは、エリザベス朝後期の文学作品―特にメアリー・スチュアートの処刑以後の詩と演劇―と、同時代の政治風土との関わりについて考えてみたい。

1580年代後半以降の政治状況の特質のひとつは、 "The Cult of Elizabeth" という現象の背後に潜む、エリザベスの政治権力の弱体化とそれに伴う宮廷の派閥争いであった。こうした不安定かつダイナミックに揺れ動く政治状況が、同時代の詩と演劇の根底に横たわる力と、どのように連関するのか。こうした問いを前提としながら、各メンバーが、以下の諸問題を中心に考察を加えていく。⑴Spenser, The Faerie Queene(主に第5、6巻)とエセックス伯 (小田原)、⑵Chettleのプロテスタンティズム(本多)、⑶Shakespeare, Julius Caesarとイングランドの政治状況(1599年)(吉村)、⑷Shakespeare, Richard II 再考(土井)⑸Lyly, Endimionにおけるエリザベス表象(団野)、⑹Peeleの諸作品とエセックス伯(佐藤)。


セミナー2 シェイクスピア上演・上演研究の今

コーディネーター: 小林かおり(同朋大学准教授)
メンバー:
  • 末松美知子(群馬大学教授)
  • エグリントンみか(日本学術振興会特別研究員)
  • 佐藤由美(富士常葉大学准教授)
  • ダニエル・ガリモア(日本女子大学准教授)
  • 阪本久美子(日本大学准教授)

シェイクスピア劇を上演されたものとして研究するようになってすでに半世紀が経とうとしている。初期の上演研究は劇評や写真などの言説を通して過去の上演を記録として残すことにあった。しかしながら、最近では、記録としての上演研究は姿を消し、ポスト・コロニアリズム理論、グローバル理論、パフォーマンス理論なども援用されるようになってきている。

また、英国のシェイクスピア上演よりもローカルな上演に焦点があてられているのも最近の特徴である。英国詩人シェイクスピアや「本場」英国のシェイクスピア上演が持つ権威を解体しようとする動きが顕著になり、非英語圏におけるシェイクスピア上演に注目が集まっている。しかし、たとえば、アジアの研究者がアジアのシェイクスピア上演を語るさいに、英米人研究者のパラダイムをそのまま援用してもよいのだろうか。私たちが考えるべき問題は多々ある。

本セミナーでは国内外のシェイクスピア上演の現在の状況を確認したうえで、上演研究のパラダイムの今、今後の方向性を見極めていきたい。とくに、アジアの研究者としてシェイクスピア上演を語るパラダイムを探りたいと考えている。


 

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