シェイクスピア学会

第48回シェイクスピア学会


日時:2009年 10月 3日(土) / 4日(日)

会場:筑波大学 (〒305-8571 茨城県つくば市天王台1‒1‒1)

主催:日本シェイクスピア協会

共催:筑波大学

  プログラム
  資料: 研究発表要旨
  資料: セミナー指針
  会場案内

学会案内

  

プログラム



10月3日(土)13:00

開会式

[講堂]

10月3日(土)14:00-17:00 研究発表

第1室

[3A202講義室]

第2室

[3A203講義室講義室]

第3室

[3A301講義室]

第4室

[3A304講義室]

第5室

[3A312講義室]

懇親会

  • 会 場: 第2エリア食堂(2B棟1F)
    *学会会場(3A棟)の向かいの建物です。
  • 時 間: 17:30 ­- 18:45
  • 会 費: 2,000円



10月4日(日)10:00-12:30 特別講演

[3A204講義室]

司会: 筑波大学教授 浜名恵美

「恐怖を舞台に」

青山学院大学教授 富山太佳夫

10月4日(日)11:30−13:00 昼休み

第2エリア食堂にてお弁当をお受け取りください。一般会員控え室は、3A207講義室です。


10月4日(日)13:00-16:00 セミナー

《セミナー1》  ロマンティック・リバイバル―騎士道ロマンスとエリザベス朝文学

[3A301講義室]

《セミナー2》  New Synergies in Contemporary British Shakespeare Performance

[3A304講義室]

βαχκ

  

【資料】 研究発表要旨



服飾と身体の交錯 ― Othello におけるハンカチ再考
群馬工業高等専門学校准教授 八鳥 吉明

初期近代英国において、服飾と身体の表象はダイナミックな変貌を遂げてい く。そしてコスチュームとしての服飾を役者の身体に纏わせる演劇は歴史のダ イナミズムと連動していた。本発表はWilliam Shakespeare のOthello におけ る“handkerchief”表象の再検討を通して、初期近代英国における服飾と身体の 問題の考察を試みる。17世紀末にThomas Rymer はOthello を“The Tragedy of Handkerchief”と揶揄したが、ハンカチにはこの悲劇を駆動するより複雑な 意味が付与されている。英語では1530年に最初の使用が記録され、Othello の 中で他のShakespeare 作品の語彙使用の観点から見て異例ともいえる頻度で言 及される“handkerchief”は、この劇の一つの核として悲劇性の重要な要因を構 成している。そこには身体の問題が関与している。今回の発表では、ハンカチ と身体表象が交錯する中で実体化されていく女性的身体の問題に焦点をあてな がら、Othello の読解を試みたい。


「『終わりよければすべてよし』」なんて、いったい誰が言ってるんだ
金沢大学教授 高田 茂樹

本発表は、『終わりよければすべてよし』について、これをシェイクスピア が自分のそれまでの作劇法や自己成型の仕様を検証するために書いた実験作と 捉えようとする試みである。

この劇の登場人物たちは行動やその動機が共感しにくいが、それは、彼らが 用いる言葉が適切と感じられないことに由来しているように思われる。

この芝居はまた、劇のアクション全体や個々のストーリーのレヴェルでも、 不備を露呈する。こうして、作品は、さまざまな要素をコラージュ的に貼り合 わせて、一つの全体像を結ぶというよりは、各要素がうまくかみ合わず、逆に それぞれの要素の不適切さを浮かび上がらせるアサンブラージュのように見え てくるのである。

シェイクスピアが、こういうかたちで自身のドラマトゥルギーのずさんさを 暴き立て、それに依拠してきた自身の成長の物語を疑問に付そうとする、その 意味を考えたい。


『ロミオとジュリエット』におけるtime paradox と作品構造
フェリス女学院大学教授 由井 哲哉

『ロミオとジュリエット』には大きく分けて三つのレベルでの時間が存在す る。プロローグで宣言される「二時間の興行」という上演の時間、主人公たち の出会いから死に至る物語の進行の時間、そして収穫祭や五旬祭といった祝祭 で規定される季節の時間である。この他にも、作品のテーマに関わる時間への 言及は多く、しかもそれぞれに問題をはらんでいる。

一方、シェイクスピアはこの作品のプロローグで、早々に悲劇的結末を観客 に知らせ、いわば倒叙推理としてこの悲劇の物語を展開する。結末の時間を規 定した上で、そこに至るプロセスに光を当てようとしたシェイクスピアの劇作 の意図を、時間の扱いと絡めて考察してみると、この作品の構造上の様々な問 題が浮かび上がってくるように思われる。


「不思議の国」のハムレット
学習院大学教授 中野 春夫

『ハムレット』の劇世界にはユートピア物語やファンタジーと類似するフィクションならではの特殊な設定が施されているように思われる。法律、慣習、文化等について観客(読者)が自明とするものとは異なる制度をもつ異世界にシェイクスピア時代の社会常識をもつ登場人物が生活したならば、その登場人物はどんなトラブルに直面し、人間関係の上でどのような重荷と困難を背負わされることになるのだろうか?『ハムレット』という劇作品はこの特殊な設定からより分かりやすく説明できるのかもしれない。

本発表では「選挙(th'election)」や「近親相姦(incest)」などの断片的な情報が観客や読者にどのような社会制度(社会関係)をもつ世界を想像させるのかを分析したうえで、不動産所有、相続ルール、婚姻要件にかんし『ハムレット』の「デンマーク王国」ではどのような点で特異な社会制度が設定されているのか、この問題を論じてみたい。


シャイロックのナショナリズム−『ヴェニスの商人』試論
弘前大学教授 田中 一隆

本発表では、シャイロックのキリスト教徒に対する態度を「ナショナリズ ム」(nationalism)という概念を使って考察してみたいと思います。シェイク スピアの時代は、「国家」と結びついた近代的な意味における「ネイション」 (nation) ̶  いわゆる「国民国家」(nation-state)の概念̶が生まれる前、あ るいは誕生にいたる過渡期であったので、近代的な意味での「ナショナリズム」 が『ヴェニスの商人』にそのままあてはまるわけではもちろんありません。し かし、シャイロックの台詞にしばしば登場する“nation”という言葉は、それが 他の作品で使われた時とは異なる、あるはっきりとした態度、価値観を示唆し ているように思われるのです。しかも、シャイロックのナショナリズムは、近 代的な国民国家の概念を前提としない、きわめて原初的な態度、価値観である ように思われます。nation という言葉を手がかりにシャイロックのキリスト教 徒に対する態度を考察すると同時に、それとは対照的なキリスト教的価値にも 言及してみたいと思います。


‘Disposed to mirth’: The Humour of Antony and Cleopatra
東京大学非常勤講師 David Taylor

In the discussion of this ‘problem tragedy’, commentators have not missed the strong tension between tragic action ‒ the failure to avert personal disaster by obeying public or political stricture ‒ and the omnipresence of comic statement passing through characters with the unusual fluidity and apparent formlessness of the play itself. It is not just Antony who is, according to Cleopatra, ‘disposed to mirth’, or a specifi ed ‘all-licensed fool’ as in the other major tragedies, but almost the entire cast. Characters engage in comic, humorous or ironic repartee as a means of conveying the seriousness of human predicament. This central paradox is not unique to this particular tragedy (Shakespeare’s gallows humour is an intriguing, familiar feature of both his tragedies and comedies), but deserves closer attention, particularly in the play’s many lesser-known passages.

To what extent does the humour in Antony and Cleopatra add to the established critical debate that Shakespeare is straining the limits of tragic form and demanding an unusual, even excessive degree of judgment from audiences in his mature artistry? This account will also debate the most relevant details for Shakespeare studies in Diana Preston’s well-received new history Cleopatra and Antony: Power, Love and Politics in the Ancient World (2009).


The Sword of Freedom and People’s Rights Movement
イリノイ大学准教授、筑波大学外国人特別研究員 Robert Tierney

In this paper, I study Tsubouchi’s earliest translation of Shakespeare’s Julius Caesar. Written while he was a student at Tokyo University and published in 1884, the play has the kabuki-like title: The Strange Tale of Caesar: the Sword of Freedom and the Echo of its Sharp Blade. Tsubouchi later disavowed this early work and scholars have tended to dismiss The Sword of Freedom as a preparatory step to his mature translations of Shakespeare. I argue that this translation represents a high point in his early career but points to a toward a turning point in his views on literature. I focus on three aspects of this work: its place within Tsubouchi’s overall translations of Shakespeare; the play as an early case of the reception of Western theater in Japan; the relationship between the language of the play and the contemporary Freedom and People’s Rights Movement.


『オセロウ』受容史再考のために―宇田川分海『板東武者』(1892)
東京学芸大学准教授 近藤 弘幸

明治期の日本における『オセロウ』受容史は、川上音二郎による翻案上演か ら、坪内逍遥による翻訳上演へ、という流れで語られることが多い。しかし、 日本における『オセロウ』受容には、こうした舞台公演としての受容に先立つ、 いわば「前史」が存在する。ムーア人の老将軍とヴェネチアの白人令嬢の悲恋 物語は、まず条野採菊の手によって翻案され、『花の深山木』という題名で東 京の「やまと新聞」に連載され、のちに『痘痕伝七郎』のタイトルで出版され た。この『痘痕伝七郎』はある程度知られており、先行研究も存在するが、『花 の深山木』連載のほぼちょうど一年後、場所を大阪に移して同じく新聞に連載 された『オセロウ』の翻案小説があったことは、まったくと言っていいほど知 られていない。それが、宇田川文海の『阪東武者』である。本研究発表の目的 は、この忘れられた翻案小説の概要を紹介するとともに、その予備的考察・分 析を試みることである。


Birnam Wood への新たなアプローチ ― Macbeth における男性性の幻想
東京大学大学院修士課程 塚田 雄一

『マクベス』の作中で下された「帝王切開で生まれたマクダフ」と「移動す るバーナムの森」をめぐる預言に関して、これまでの研究は個別に意味を読 み取るにとどまり、この二つの預言を関連づけて解釈しようとする研究はい まだ乏しい。本発表の目的は、二つの預言を結びつけることで、自然による 祝祭的な秩序の回復を示唆するものとして主に解釈されてきた後者の預言に対 し、新たな読解が可能となることを示すことにある。特に『マクベス』におけ るバーナムの森が、ルネサンス期特有の表現手法によって「英雄的な男性性」 を象徴しており、「女性性から切り離された胎児」としてマクダフを呈示する 前者の預言とあいまって、作品全体の基調となる「男性性の幻想(female-free fantasy)」を演出していることを指摘する。また、こうした『マクベス』のテー マが、エリザベスからジェイムズへの王朝の移行という、当時の政治的文脈と いかに強い繋がりをもっていたかを論じる。


『スペインの悲劇』における女性表象と〈終わり〉の感覚
東北大学准教授 岩田 美喜

周知のように、『スペインの悲劇』(The Spanish Tragedy , c. 1587)は、エ リザベス朝復讐悲劇の嚆矢であり、その「復讐」という主題はしばしば、宮内 司法官であるヒエロニモーが法に絶望せざるをえないという皮肉、ロレンゾー やバルサザーとの階級的な軋轢、劇中劇の作者/演出家としての創造的自意 識、などといった側面から論じられてきた。いわば、批評家たちは、階級・言 語・メタ性といった厄介な概念を自在に操りながら、ヒ・・・・・・・エロニモーを論じてき たといえよう。もちろん、ヒエロニモーが重要な登場人物であることは疑いが ない。しかし、次々と形を変えながらこの作品をいっぱいに満たしてゆく「復 讐」の全てに関わっているのは、ヒエロニモーではなくベル=インペリアの方 なのである。本発表では、ベル=インペリアが、ヒエロニモーと密接に関わる 問題を予表していることを論じ、それが作品の〈終わり〉の感覚にまでも影響 を与えていることを示したい。


戦後ジャンル映画におけるシェイクスピア受容のインターテクスチュアリティ―『荒野の決闘』から『悪い奴ほどよく眠る』まで
九州大学准教授 大島 久雄

黒澤明監督『蜘蛛巣城』(1957)が登場した1950年代とその前後は、ジャン ル映画におけるシェイクスピアの受容が活性化した時期である。『蜘蛛巣城』 は、『マクベス』を日本の戦国時代に置換し、時代劇というジャンル形式によ り翻案して世界的評価を得たが、英国ではその二年先んじて『ジョー・マクベ ス』(1955)が、アメリカでは『キス・ミー・ケイト』(1953)や『禁断の惑星』 (1956)が登場し、シェイクスピア翻案映画の魅力を一般に認知させる契機と なった。本論は、戦後復興期ジャンル映画におけるシェイクスピア受容の活性 化に着眼し、特に受容の地域性に注目しながら、『荒野の決闘』(1946)、『他人 の家』(1949)、『折れた槍』(1952)、『去り行く男』(1956)、『悪い奴ほどよく 眠る』(1960)を取り上げ、これらの西部劇・ギャング映画におけるシェイク スピア受容のインターテクスチュアリティを検討する。


シェイクスピア時代における‘within’の意味と用法
東北大学教授 市川 真理子

‘within’ は最も基本的な演劇用語のひとつである。数年にわたり、このト書き の意味と用法に関する研究を行い、調査結果を断片的にいくつかの場で発表し てきた。この機会に新たな発見も含め、‘within’ について現在認識しているこ とを発表したい。主に次の4点について述べることになるだろう。

  1. ‘Within’ は漠然としたト書きであるが、実際に ‘within’ として頻繁に使わ れる場所は数箇所に限られていた。
  2. ‘Within’ とされる人物の姿は、必ずしも舞台上の人物や観客から見えない わけではない。
  3. ‘Within’ が楽屋の上階ないしは舞台の上方のバルコニーに言及している例 が少なからず存在する。
  4. 極めて稀ながら、‘within’ が ‘to direct a speech towards within’ の意味で 使われているのではないかと思われる例もある。

それが当時のステイジングを考察する上でどのように関わるのかということ にも言及するつもりである。


悪役になりたい―サンドフォード・シバー・リチャード三世
大同大学准教授 小西 章典

Colley Cibber のRichard III が上演された1699年、王政復古による劇場再開 当初から舞台に立ち続けてきた畸形の俳優Samuel Sandford が演劇界を去る。 サンドフォードを念頭に執筆されたリチャード三世という役は、結局、劇作家 自身によって演じられることになるが、上演にのぞむ劇作家のことばからは、 サンドフォードを引き継ぎたいという積極的な欲望の表明が洩れ聞こえてく る。劇作家は、サンドフォードが得意としていた〈悪役〉になりたいのだ。つ まり、シバーはサンドフォードとのあいだに系譜関係を捏造しようとするので あり、その契機となったのが彼の『リチャード三世』にほかならない。本発表 では、サンドフォードの周囲に形成されるシバーの欲望――サンドフォードの 系譜――という観点から、『リチャード三世』を読んでみたい。そこでは、畸 形=悪役という前提や、喜劇役者シバーと悪役とのあいだに生起する齟齬の問 題なども検討されることになるだろう。


なぜイモインダは白人に変えられたのか?
北見工業大学准教授 福士 航

トマス・サザンがアフラ・ベインの『オルノーコ』(1688)を演劇に翻案し た際に、アフリカ人ヒロインのイモインダは白人へと変更された。なぜこのよ うな改変がなされたのかについては盛んに議論されてきたが、本発表では、サ ザンの『オルノーコ』(1695)における上演面での諸要素を考慮し、受容論的 な立場から説明を試みることを目的とする。観客の中にある種の感情を喚起さ せ、観客にそれを発散させ、劇場全体でそれを共有し合うことが、この劇の上 演戦略であり、その目的のためにイモインダは白人へと変えられねばならな かったことを最終的に確認したい。また、ベインのオリジナルにおける〈他者〉 表象の戦略と、サザンの翻案におけるイモインダ変容の上演戦略には、どのよ うな連続性があるのかについても考察したい。


オペラなのか英雄劇なのか―ウィリアム・ダヴェナントの『ロードス島の攻囲』に見られる不確定性
専修大学教授 末廣 幹

17世紀内乱期の文化の再評価が進みつつある近年において、劇作家Sir William D’Avenant の活躍のなかでも、クロムウェルの護国卿政府時代に上演 された一連のエンターテインメント、とくに『ロードス島の攻囲』が再び注目 を集めている。とくに、Susan Wiseman やMatthew Birchwood の批評は高く 評価できるものだが、彼らは、文化的表象の政治性に注目しようとするあまり に、このテクストのナラティヴをじゅうぶんに分析してはいない。結果とし て、このテクストのジャンルの不確定性が等閑視されている。本発表では、 1642年以前の演劇やD’Avenant 自身が執筆した仮面劇と比較検討しながら、 このテクストの複雑なナラティヴに注目することを通じて、『ロードス島の攻 囲』の演劇史的位置づけに対する修正を試みたい。とくに、D’Avenant が、「英 語による最初のオペラ」に相応しいナラティヴを模索しながら、最終的にどの ような帰結に至ったかを確認したい。


「バター売り女」、来る ― ベン・ジョンソン作『新聞商会』における「バター」比喩の展開
聖心女子大学大学院博士後期課程 瀧澤 英子

本発表はBen Jonson 作 The Staple of News (1625/26年初演) の第一幕 四場に焦点をあてる。間近に迫った新規開店の準備に忙殺される新聞商会 に見知らぬ女性が現れNews を所望する。店員は即座に「バター売り女」 (“Butterwoman”)と察し、入荷まで待つよう言いわたす。この人物について、 従来の各版はTilley 編『ことわざ辞典』より“To scold like butterwives”(B781) を引き、呼び売りの声から連想されたであろう冗舌の典型像として説明する、 もしくは新聞出版者Nathaniel Butter 氏の姓名のもじりであるという見解に終 始する。しかし当時「バター売り女」がいかなる人物像を指したかを見直した 上で、問題の女性が発する台詞を考察すると、彼女が情報の流通網において果 たす役割が明らかとなる。この短い登場場面で「バター売り女」が垣間見せる 活躍ぶりを論じたい。


『第二の乙女の悲劇』のダブル・プロット構造の再検討
鹿児島国際大学教授 小林 潤司

ミドルトンの『第二の乙女の悲劇』(別名『淑女の悲劇』)には、主筋と脇筋 の両方で、プロットの節目ごとに現れる印象的な修辞がある。「鍵と錠」の隠 喩である。鍵と錠は閉鎖された空間に何かを密閉(監禁、隠蔽)するための道 具であると同時に、閉鎖された空間を外部に開き、そこに密閉されたものを解 放(暴露)するための道具でもあるという二面性を持っており、劇の筋立てを 考えると、〈秘密とその暴露〉、〈肉体の桎梏からの魂の解放としての死〉を表 わす隠喩として繰り返し現れることには一定の必然性がある。一方で、この悲 劇の筋立ては、監禁/隠蔽にしても解放/暴露にしても、それが当初の思惑通 り運ばずに想定外の結果を招くという失策の連続から成り立っていると言って も過言ではない。本発表では、劇の言語と物語世界を「監禁と解放」というモ チーフから読み解き、この劇のダブル・プロット構造の再検討を試みる。


イタリアとの邂逅 ― Gascoigne’s Supposes
拓殖大学教授 冨田 爽子

イタリア語から翻訳され、エリザベス朝に英国で出版された劇作品を分析 すると、当時の英国が自らのアイデンティティーを確立すべく模索する姿が 浮かび上がってくる。Gascoigne がAriosto のI suppositi を翻訳したことは、 英国喜劇の確立にとって幸運であった。Gascoigne の英国人としての感性は、 原作の本質に反応した。それは後にエリザベス朝演劇の核心となる特質 ̶̶  variety, vitality, verisimilitude  ̶̶  へと成長すると発表者は考える。Ariosto の劇はカーニバルのために書かれ、したがって全編を通じて祭りの気分に満ち溢 れている。古典喜劇の構造や規制に我慢できなかったAriosto は、Plautus や Terence から引き継いだ偉大な遺産を十分に活用しつつ、全く新しい独自の喜 劇を創作した。おそらくGascoigne は人間の生活のリアリティーを捉えようと するAriosto のあくなき探究心に感銘を受けたのであろう。原作においてそれ は血縁関係、愛情関係、そしてさまざまな ‘supposito’ から編み出されていた。 本発表はイタリア喜劇の特質をGascoigne が英国の観客と英国の読者にどのよ うに紹介したかを論じる。


『ハムレット』とドイツ精神 ― ゲーテからヒトラーまで
神戸女学院大学教授 山田 由美子

本発表の目的は、ゲーテに発する『ハムレット』ブームを通してロマン主義 からナチズムに至るドイツ精神の変容を再考することにある。

1932年、トーマス・マンは、ナチスの出現の萌芽が、ドイツ文化の「四大恒 星」――ゲーテ、ショーペンハウアー、ワーグナー、ニーチェ――にあったと 主張した。4人はいずれもシェイクスピア崇拝者であり、シェイクスピアは、 シュトゥルム・ウント・ドラング、ロマン主義、ナチスの時代を通して「ドイ ツ文化の救世主」、「ドイツ国民精神」の権化であり続けた。ドイツのシェイク スピア受容は、従来、シェイクスピアの恣意的な「ドイツ化」の所産とされて きたが、本発表は、ルター主義的色彩の濃い『ハムレット』に着目し、上記4 人が共有する『ハムレット』解釈とルター主義の関係を通して、シェイクスピ アに内在していた「ドイツ性」を究明する。


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【資料】 セミナー指針



セミナー1 ロマンティック・リバイバル―騎士道ロマンスとエリザベス朝文学

コーディネーター: 竹村はるみ(立命館大学准教授)
メンバー:
  • 井出新(慶應義塾大学教授)
  • 前原澄子(明石工業高等専門学校教授)
  • 森井祐介(関西学院大学非常勤講師)

エリザベス朝における騎士道ロマンス・ブームの再燃は、時代錯誤の中世趣 味でもなければ、(かつて強調されたような)絶対王政のプロパガンダでもな い。むしろ、中世より伝承された騎士道文学がエリザベス朝末期に様々な方向 性を付与されて社会的・文学的に拡散していく傾向が、正典の陰に埋もれてい た作品群の発掘と共に、近年大きな批評的関心を集めている。エリザベス朝騎 士道文学は、一方でロマンスの政治化という近代初期特有の転換を果たし、他 方では印刷出版と大衆劇場の成熟に支えられて新たな文化的磁場を獲得すると いう、極めてダイナミックな様相を呈しているのである。

本セミナーは、エリザベス朝騎士道文学を大衆文化というコンテクストで捉 え直し、その文化的意義を再検証するものである。ヨーロッパでも他に類を見 ない騎士道ロマンスの特需景気は一体何を意味するのか、そしてそれはエリザ ベス朝文学にいかなる影響をもたらしたのか―セミナー・メンバーは、それぞ れ1570年代から1610年代にかけての祝祭、詩、演劇、散文物語を取り上げて 論じつつ、こうした問いについても包括的な議論を展開する。変容する一大文 芸ジャンルの考察を通して、近代初期イギリス文学の創造性を照射していきたい。


セミナー2 New Synergies in Contemporary British Shakespeare Performance

コーディネーター: Daniel Gallimore(日本女子大学准教授)
メンバー:
  • James Tink(東京女子大学准教授)
  • 桑山智成(神戸大学専任講師)
  • 佐藤由美(富士常葉大学准教授)
  • 松山響子(駒澤女子大学専任講師)

The seminar will discuss the recent state of Shakespeare performance in Britain by focusing on the role of academics in defining the various frameworks in which the plays are performed today. One obvious example is the exploration of authentic conditions at Shakespeare’s Globe (opened in 1997), but more generally by deconstructing the myth of ‘British Shakespeare’, academics may in fact serve to keep alive the quest for Shakespeare’s meanings in contemporary society. Compared with the situation twenty years ago (when the Conservative government made Shakespeare a compulsory part of the school curriculum), the rhetoric of both left and right has to some extent yielded to the globalisation of Shakespeare, while the prominent productions since 1997 have been notable for their diversity, and Michael Boyd, Artistic Director of the Royal Shakespeare Company, has even spoken of a Renaissance in Shakespeare production. Seminar members will consider the topic from a variety of pedagogic, performative and theoretical approaches.

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会場案内


10月3日

開会式

3A204講義室

総会

同 上

フォーラム

同 上

研究発表

第1室3A202講義室
第2室3A203講義室
第3室3A301講義室
第4室3A304講義室
第5室3A312講義室

10月4日

特別講演

3A204講義室

セミナー

セミナー13A301講義室
セミナー23A304講義室

ワークショップ

3A202講義室

期間中

懇親会

第2エリア食堂(2B棟1F)

受付

3A 棟1Fエントランスホール

お弁当受け渡し

第2エリア食堂(2B棟1F)

会員控え室・休憩所

3A207 講義室

書店展示場

3A209 講義室

 

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