シェイクスピア学会


第38回シェイクスピア学会

 

プ ロ グ ラ ム

資料

 

 1999年10月23日(土)/24日(日)

会場:岩手大学教育学部

(〒020-8550 盛岡市上田3-18-33)

主催:日本シェイクスピア協会

 

案 内

* 会場へは、JR盛岡駅北口よりバス(11番乗り場「松園営業所行き」)で約20分、「岩手大学前」にて下車となります(詳細は巻末の「交通案内図」をご参照ください)。タクシーの場合は、南口のタクシー乗り場より約15分(料金は約1,000円)かかります。

* 学会の開会式、フォーラム、特別講演、研究発表、セミナーは教育学部1号館で行なわれますが、一部の研究発表、セミナーは教育学部2号館で行なわれますのでご注意ください。

* 受付は教育学部1号館の入口(斜面のため玄関入口は二階にあります)で開会の30分前から始めます。本年度会費未納の会員と新入会員の方は8,000円(学生会員は5,000円)をお支払いください。

* 講演は一般公開です。研究発表、セミナーへの参加は会員に限られますが、会員の紹介があれば一般の方も出席できます。

* 懇親会へのご出欠および24日昼のお弁当(\700)の要不要を同封のハガキで9月30日までにお知らせください。なお、懇親会会費は、10月23日当日あらかじめ学会会場受付で申し受けます。懇親会へはご家族、ご友人のご同伴を歓迎します。

* 23日(土)、24日(日)の学会当日の連絡先は、電話019-621-6616(岩手大学教育学部境野研究室)となりますが、緊急の場合に限ってください。

* 今年度のシェイクスピア学会は、岩手大学生協が一括して宿泊関係の斡旋をします。プログラムに同封の申し込み用紙をご利用下さい。

 

* 研究発表およびセミナーに参加される方へ

ハンドアウト等の資料は、あらかじめ充分な枚数をご用意ください。不足分が出ても会場校では複写することはできません。また、資料を前もって会場校へ送ることは、混乱を生じる場合がありますのでご遠慮ください。

 

日本シェイクスピア協会のホームページ
http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/sh/
でも学会についての情報がご覧になれます。

 

 

日本シェイクスピア協会

〒101-0062東京都千代田区神田駿河台2-9研究社ビル501

Phone/Fax 03-3292-1050 振替口座00140-8-33142

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プ ロ グ ラ ム

10月23日(土)

 

13:00[1号館2階201]

開会の辞 日本シェイクスピア協会会長 喜志哲雄

挨 拶 岩手大学教育学部長 望月善次

 

臨時総会

フォーラム

 

14:00研究発表

第1室[1号館1階117]

司会:金沢大学教授 三盃隆一

1.地図の登場と国家の成立――Woodstock にみる近代的中央集権国家と地方

同志社大学助教授 勝山貴之

2.シェイクスピア歴史劇としての『エドワード三世』

横浜市立大学助教授 岩崎 徹

 

司会:中央大学教授 青木和夫

3.'Music Dear Solace'に見る詩と音楽

東京大学教授 鈴木英夫

 

第2室[1号館2階230]

司会:神戸女学院大学教授 山田由美子

1. 'O God's Will, Much Better She Ne'er Had Known Pomp': The Making of Queen Anne in Shakespeare's Henry VIII

名古屋商科大学専任講師 坂本久美子(K. Hilberdink-Sakamoto)

2. 第二・四部作におけるサリック法の持つ意味

九州大学教授 徳見道夫

 

司会:梅光女学院大学教授 朱雀成子

3. 「浮浪者取締法」再考

九州大学教授 太田一昭

 

第3室[2号館2階279]

司会:東京大学教授 高田康成

1.シドニーのマイラ詩群をめぐって

東京工業大学助教授 篠崎 実

2.'Not kidding' in Shakespeare's Sonnets

東北大学外国人教師 Peter Robinson

 

司会:学習院大学教授 中野春夫

3.王政復古期のシェイクスピア改作の理念――John DennisのThe Comical Gallant を一例として

帝京大学教授 佐野昭子

4.翻訳というかたちのシェイクスピア解釈

翻訳家・演劇評論家 松岡和子

 

第4室[2号館3階378]

司会:大妻女子大学教授 栗原 裕

1.狼烏の子羊――『ロミオとジュリエット』における複合語の使用について

高知大学教授 村井和彦

2.恋愛悲劇における〈すれ違い〉の許容度

筑波大学教授 加藤行夫

 

司会:福岡大学教授 柴田稔彦

3.エリザベス朝「犯罪劇」のモダニズム

東北大学教授 原 英一

4.マルヴォーリオは何のふりをしているのか?

立教大学教授 村上淑郎

 

19:00〜20:30 懇親会

会場:ホテル東日本(盛岡市大通3-3-18、電話019-625-2131(代)、巻末の案内図をご参照ください)

会費:6000円

 

10月24日(日)

10:00 講演[1号館2階201]

司会:神戸市外国語大学助教授 南 隆太

シェイクスピアと「語り」

上智大学教授 安西徹雄

日本の劇はもともと語り物を母胎として生まれ、完成した形においてもなお、語り物としての性格を根強く残している点で、西洋の劇とは根本的に質を異にするものだといった見方が、今日でもまだ一種の常識として、かなり広く受け入れられているようです。
しかしこの「常識」には、明らかなファラシーがあります。第一に、西洋の劇もまた、語り物を起源としている(ギリシア悲劇のディテュランボス、エリザベス時代劇の聖書や聖人伝、中世ロマンスなど)ばかりでなく、特にエリザベス時代劇の場合、「叙事演劇」としての特徴を強く示しているからです。
けれどもさらに重要なのは、「劇」と「語り」が、上の「常識」が前提としているように対極をなすものではなく、実は共通の本質を共有しているという事実でしょう。
こうした点を、私自身、演出作業を通じて経験し、内省した跡を振り返りながら、できるだけ具体的に例証してみたいと考えております。

 

11:30〜13:00 昼食

一般会員控室(1号館2階203)にてお弁当をお受け取りください。

 

13:00〜16:00 セミナー

セミナー1 [2号館2階279]

エリザベス朝演劇史の方法

司会:斎藤 衞(武庫川女子大学教授)

メンバー:笹山 隆(関西学院大学名誉教授) 玉泉八州男(千葉大学教授)

 

セミナー2 [2号館3階378]

ロマンス劇を読む――Cymbeline The Winter's Tale を中心に

司会:末廣 幹(東京都立大学助教授)

メンバー:阿部かおる(北陸学院短期大学助教授) 伊藤洋子(愛知江南短期大学助教授) 蒲池裕子(広島大学大学院博士課程) 佐々木和貴(秋田大学助教授) 鶴田 学(福岡大学大学院博士課程) 中村裕英(広島大学助教授) 前原澄子(明石工業高等専門学校専任講師) 正岡和恵(成蹊大学助教授) 真部多真記(筑波大学大学院博士課程) 吉原ゆかり(筑紫女学院大学助教授)
コメンテイター:岡本靖正(東京学芸大学学長)

 

セミナー3 [1号館1階117]

変身・変装・異性装

司会:河合祥一郎(東京大学助教授)

メンバー:岩田道子(東京学芸大学非常勤講師) 高桑陽子(中央大学非常勤講師) 細川 眞(中京大学教授)

 

セミナー4 [1号館2階230]

Fool再考

司会:小町谷尚子(慶応義塾大学専任講師)

メンバー:石塚倫子(那須大学助教授) 小野俊太郎(成城大学非常勤講師) 河野洋子(明治大学非常勤講師) 丹羽佐紀(鹿児島大学助教授)
コメンテイター:荒木正純(筑波大学教授)

 


【資 料】

研究発表要旨

 

地図の登場と国家の成立

--Woodstock にみる近代的中央集権国家と地方

同志社大学助教授 勝山貴之

1579年Christopher Saxtonの測量による英国の地図が出版された。この地図の出版以前にも英国の地図は存在していたが、これほど詳細で精緻を極めたものは始めてであり、この後、約200年の間、英国の地図のほとんどがこのSaxtonの地図を基に作成された。地図の各項に印された女王陛下の紋章が物語るように、地図作成の背景には、Elizabethによる中央集権国家の成立というイデオロギーが存在していたことは言うまでもない。女王陛下の地図に描かれたのは、まさに女王の支配する土地であり、女王の統治する国家であった。作品Woodstock において、Richard IIは王国の地図を示しながら、寵臣たちに領土を割譲する。この地図こそ、国民ひとりひとりの財産を記録し、国民を王国の絶対権力へと統合することによって作り上げられた近代国家の支配地図に他ならない。そして劇は、こうした体制側の政治戦略に対する地方庶民の抵抗の姿を見事に描き出している。

 

シェイクスピア歴史劇としての『エドワード三世』

横浜市立大学助教授 岩崎 徹

『エドワード三世』は部分的にシェイクスピアが執筆したとする学説は、近年の統計的分析により補強されている。エドワード三世については、シェイクスピアの歴史劇四部作で言及があり、第一・四部作(とくに『ヘンリー六世・第一部』では、正統な王家の系図の原点として捉えられ、また、第二・四部作(『ヘンリー五世』)では、フランスの戦場で父王が黒太子の活躍を満足げに見守るという理想的王位継承の原型的イメージが提示されている。創作年代的に二つの歴史劇四部作の中間に位置するこの作品を、シェイクスピアの一連の歴史劇の流れの中に位置付けてみたい。

 

'Music Dear Solace'に見る詩と音楽

東京大学教授 鈴木英夫

従来、lute ayre研究においては、文学研究の立場からはThomas Campionに、音楽研究の立場からはJohn Dowlandに関心が集中する傾向がともすれば強かったように思われるが、最近ではそれ以外の作詞・作曲家をも対象に含めた新しいアプローチが試みられ始めている。
本発表ではイギリス17世紀初頭の作曲家Francis Pilkingtonのlute ayre作品集から、'Music Dear Solace'に焦点を当てて、当時の思想的背景を視野に入れつつ、それが音楽をテーマとしたこの作品の中でどのように具体的に詩的言語化されているか、また音楽との絡み合いの中でそれがどのように機能しているかを考察する。そして、当該分野及びそれに関連する最近の研究を参照・検証しながら、この作品における詩と音楽の関係を重層的、多角的に分析し、その特異性と普遍性を考察するとともに、その結果を基に、この分野の今後の研究のあり方を探りたい。

 

'O God's Will, Much Better She Ne'er Had Known Pomp': The Making of Queen Anne in Shakespeare's Henry VIII

名古屋商科大学専任講師 坂本久美子(K. Hilberdink-Sakamoto)

The world of history plays is dominated by a male power structure and, therefore, eliminates women from major actions of the plays. The power of a woman and a woman in power are inevitably problematic in this context. Henry VIII contains a rare example of positive representations of women in power: the first queen, Katherine of Aragon, has seldom received a fair treatment in modern criticism. Anne Bullen, the second of King Henry's wives and the mother of the future Queen Elizabeth, attracts even less critical attention.
I should like to focus on the 'romantic' role of the second queen. Anne Bullen does not share the former queen's royal birth, and her inferior social position is repeatedly mentioned in the play as if to emphasise her unusual ascent. Her success story matches the 'Cinderella formula', the formulaic plot of a poor (nameless) girl meeting a man who, being socially and financially superior, rescues her from her humble status.
Anne, on her way up the social ladder, has only fifty-eight lines in three scenes: a few lines in her first appearance; most of her lines in the second scene; and none in her coronation procession. The paper examines these three scenes, and discusses the discourse of love within the play.

 

第二・四部作におけるサリック法の持つ意味

九州大学教授 徳見道夫

映画や上演の演出においては、『ヘンリー五世』第一幕第二場で、カンタベリー司教が熱心にヘンリー五世に対してサリック法を説明する場面が軽視されているように思われる。古くは、Laurence Olivierの映画の中で、その場面は滑稽に演じられて、サリック法の持つ意義が必ずしも重要ではないという印象を観客に与えているし、1997年ロンドンで上演されたロイヤル・シェイクスピア劇団の『ヘンリー五世』では、その場面は完全に省略されていた。単純に考えても、サリック法の解釈は、これからのヘンリーの行動に重要な思想的バックグラウンドを与えるもので、この場面は劇全体の最初の要とも言うべき重要な場面である。それゆえ、滑稽に演出されても、また完全に省略されても、その場面の持つ重要なメッセージを観客に与えていないことになる。アーデン版『ヘンリー五世』の編者T. W. Craikは、「サリック法についてのカンタベリーの言葉は、真剣に取られるべきことは、言うまでもないことである」と言い切っているが、映画監督や演劇家の間では必ずしもそうではない。今回の発表では、『ヘンリー五世』単独の作品の中だけでなく、第二・四部作全体の中でサリック法が、どのような象徴的な意味を有しているかを論じてみたい。

 

「浮浪者取締法」再考

九州大学教授 太田一昭

1572年、英国ルネサンス演劇史において重要な意味を持つ、2つの議会制定法--「家臣禁止法」と「浮浪者取締法」--が施行された。2つの制定法は、この時代の演劇の統制を語る際に必ずといってよいほど言及される法であるが、その意義は充分に理解されていないように思う。本発表では、両法の差異を指摘したのち、「浮浪者取締法」の変遷を跡づけ、その演劇史的意義を探る。
1572年と98年施行の「浮浪者取締法」が大衆劇俳優の巡業を制限したと考えるべきではない。それらはむしろ、旅役者・旅芸人を保護したのである。98年の「取締法」は、男爵以上の貴族に庇護された劇団・芸人に対してのみ罰則適用を免除している。1604年の「取締法」は、その免除規定を無効としている。しかしこの法の施行によって、有力者の庇護を受けた劇団や芸人が実質的不利益を被ったという証拠はない。

 

シドニーのマイラ詩群をめぐって

東京工業大学助教授 篠崎 実

サー・フィリップ・シドニーの作品中にマイラという名の女性がたびたび現われ、われわれの興味を引く存在となっている。その名はつとに最初期の作品である1577年戴冠記念日馬上槍試合の詩に登場し、彼女は『アルカディア』両版にも、1593年版『アルカディア』に編者によって第3エクローグに挿入された若書きの詩にも現われる。そればかりか、マイラは『アストロフィルとステラ』にまでその影を投げかけている。詩人のペルソナとおぼしいフィリシデスによって呼びかけられるために、その正体をめぐるさまざまな憶測を喚起してきたマイラを特定の実在人物に還元するのでなく、彼女が現われるそれぞれの詩における現実と虚構のバランスを見定め、詩人の創作にたいするスタンスの変化を読みとること、それが本発表の目的である。時間が許せば、その問題との関連で、エリザベス朝の恋愛文学成立にたいするシドニーの貢献という問題にも触れたい。

 

'Not kidding' in Shakespeare's Sonnets

東北大学外国人教師 Peter Robinson

In Anthony Hecht's Introduction to the G. Blakemore Evans edition (1996) and Helen Vendler's The Art of Shakespeare's Sonnets (1998), these poems occasion a renewed assertion of formalist critical reading at the expense of attention to the cultural knowledge that the Sonnets generate. I argue that formalist advocacy of the dramatic character of the Sonnets prompts us to ask--as we naturally do--how these poems speak, who is speaking them, and to whom they speak. Though responding to such questions does not require biographical speculation about the Sonnets as documents in their author's life, it cannot exclude it; what it does require is an informed imagining of the poems as speech acts within implied circumstances. These circumstances, conveniently taken to be outside the poem for the purposes of formalist readings, are an integral part of their meanings--a fact demonstrated by the ways in which Hecht and Vendler sometimes screen out such senses and their implications, or tacitly rely on them while attributing the meanings proffered to readings of the poems' linguistic structures alone. Yet it is by means of such informed imaginings of the Sonnets as culturally specific speech acts that they can speak to us now.

 

王政復古期のシェイクスピア改作の理念――John DennisのThe Comical Gallant を一例として

帝京大学教授 佐野昭子

John Dennisによる『ウィンザーの陽気な女房たち』の改作、The Comical Gallant (1702年)は発表当時から不評で、シェイクスピア改作の最悪例といえるが、改作の理念と傾向をよく示しているという特色がある。
デニスは、フェントンを町人に変え、原作の市民対宮廷人の対立という構図をぼかし、いくつかの設定を対にして(宿屋が二軒、フォード夫人の架空の恋人が二人、ウィンザーの森のフォルスタッフとフォードという二頭の鹿)安定性と普遍性を意図し、アンとフェントンには秘密結婚をさせず、教訓色を鮮明にしている。
デニスはチャールズ二世時代を「詩と快楽」の時代であったと理想化し、実務の時代の1690年代を喜劇に理解のない時代としている。しかし、「喜劇の目的は人間の愚行を暴き、矯正すること」とするデニスは本質的に古典派だった。王政復古期喜劇風の不道徳性と古典主義喜劇の教訓性を同時に強化しようとした点に矛盾があったと思われる。

 

翻訳というかたちのシェイクスピア解釈

翻訳家・演劇評論家 松岡和子

Jonathan BateはThe Genius of Shakespeare の中で、シェイクスピアがa man of the theatreであったと繰り返し述べている。つまり「現場の劇作家」だったということだ。それに倣って言えば、現在シェイクスピア作品の新訳に取り組んでいる私の立場はa translator of the theatreである。翻訳という作業は選択と断念の連続だが、それを通した「解釈」もおのずとその立場から生まれてくる。本発表は、Hamlet からRichard III まで8作を訳しおえた段階での中間報告になろうが、その過程で「これは考慮の中心に置くべきだ」「これはしてはならない」という、シェイクスピア劇翻訳における私にとっての「基本条項」がいくつも生まれてきた。たとえば、その最大のものは「意味(semantics)、イメージ(metaphorical)、音韻(metrical)の三つのstrandsが絡み合っているphraseなりsentenceは、翻訳でも出来るかぎりそれらを生かす」。あるいは「台詞にト書きが埋め込まれている場合は、翻訳でもそれを殺さない」などなど。その「条項」のほとんどは「現場」に立ち会うことから自覚されてきた。先行諸訳と拙訳とを比較対照させながら具体的な例を挙げてゆけば、おのずからシェイクスピアがどういうことに心を砕いた劇作家だったかという一面が見えてくるはずだ。

狼烏の子羊--『ロミオとジュリエット』における複合語の使用について

高知大学教授 村井和彦

『ロミオとジュリエット』の文体的特徴に複合語の多用がある。3幕2場でジュリエットは矛盾語法を駆使して絶望のことばを語る。その中で、ロミオは'wolvish ravening lamb' と表現される。烏の 'raven' と動詞 'raven' は語源的には別のことばであるが、この文脈ではpunを形成し、両者の親近性が強調されている。するとここでは狼、烏、子羊という3種もの動物が一人の人間を描写するのに使われていることになる。原文の比喩表現を忠実に訳すとしたら小論の題に掲げたような奇妙な日本語になってしまうだろう。われわれはロミオをキマイラのような怪物として想像しなければならないのだろうか。この発表では特に複合語に焦点を当てながら、作品の言語使用の問題を考えてみたい。

 

恋愛悲劇における〈すれ違い〉の許容度

筑波大学教授 加藤行夫

恋する男女の誤解や勘違いは、最終的な出会いと和解に至るシェイクスピア喜劇の常套的な中間段階だが、ともに愛に殉ずるかに見える悲劇の結末も、実はいかに〈すれ違い〉に満ちていることか。ロミオが毒を仰いで死んだとき、ジュリエットはまだ生きていた。オセロが愛に絶望して殺害したのは、愛に誠実なデズデモーナだった。リアは(男女とはいっても父と娘の関係だが)すでに息せぬコーディリアの、その息を感じて息絶えた。こういった判断の誤りは、喜劇であれば、さらに数場面を重ねて解決されるべきものだが、ふたりの死をもって終わる物語は、かくして深刻な「間違いの悲劇」のまま閉じられる。それにしても、死して一体化するはずの男と女の、その最期に、なぜあえて〈すれ違い〉なのか。シェイクスピアが依拠したとされる材源やその後の翻案劇、さらには日本的「心中」のドラマトゥルギーとの比較を試みながら、エリザベス朝悲劇における〈すれ違い〉の距離感を計ってみたい。

 

エリザベス朝「犯罪劇」のモダニズム

東北大学教授 原 英一

エリザベス朝演劇は、近代文明の初期にあって、「近代」そのものをいかに、どの程度まで表現していたのか、「犯罪劇」を通して再検討を試みる。人間中心主義的時代とされるこの時期にあって、少数の一群の芝居が、非人間的世界の深淵を描き出している。「犯罪劇」は、テューダー朝の道徳劇の伝統の中にありながらも、「近代」という世界の実相を時に瞠目すべき極限にまで追求している。現実に対する先鋭な意識がリアリズムそのものを根底から覆して、非人間的宇宙の超現実的表現にまで至る様を、三つの代表的な「犯罪劇」、作者不明の『美しき女たちへの戒め』(A Warning for Fair Women, 1599)と『フェヴァーシャムのアーデン』(Arden of Faversham, 1591)、そしてヤリントン(Robert Yarington)の『二つの嘆かわしき悲劇』(Two Lamentable Tragedies, 1594)を通して考察する。

 

マルヴォーリオは何のふりをしているのか?

立教大学教授 村上淑郎

『十二夜』IV. ii.でフェステがマルヴォーリオに問いかける-- 'are you not mad indeed or do you but counterfeit?'
「狂気のふりをしているのか」ときいていると考えるのがふつうだが、ジョンソン博士やマローンも言うようにorという接続詞があるからには「狂気でないふり」ともとれる。
この喜劇の主要人物たちは、それぞれに恋の狂気におちていた。いちばん後から同じ狂気にとりつかれた執事は、いちばん激しく変身した。喜劇の仕組みが他の人々を救ってくれるのに対して、にせの手紙に頼るしかない彼は、ひたすら突っ走った。狂っているのにそうでないふりをするしかなかったかもしれない。
主人公たちの運命を先取りする。彼らの行動を際立たせる。マキューシオ、ジェイクイーズ、イノバーバスといった人物群にマルヴォーリオも加えて、シェイクスピアの劇の仕組みを考えてみたい。

 

セミナー指針

 

セミナー1

エリザベス朝演劇史の方法

司会:武庫川女子大学教授 斎藤 衞

エリザベス朝演劇史という、シェイクスピアを頂点とする、類い稀な一時代の演劇史を扱うのに、お二方のような碩学をスピーカーにもつことは、この時代の演劇全般について、根源的な問題を考えながら、広い展望を得る絶好の機会をえたことを意味する。折角の好機を無駄にしたくない。
狭い知識しかもたぬ筆者のような者が司会などという役割を演じるとなれば、やるべきことは大体きまっている。即ち、お二人の広く深い知識の開陳の邪魔をしないこと、しかし、他方で、話が及び難い程遠く高いところに飛翔しそうになったら、それを極力共通の広場に引き戻すことである。
全体をAB二部に分かち、Aで理論的なことを論じ(一人約25分)、Bで実際的な問題を扱う(一人3, 40分)。
A ハンターから始めて、溯って過去の演劇史の方法を点検する。チェインバーズ、ベントレー、ウィッカム、F.P. ウィルソン、『ケンブリッジ・コンパニオン』、ハーベッジ、外に特色あるものとして、エリス・ファーマー等。
演劇史の方法の点検の過程で、次の根本的な諸問題があがってくるはずである。エリザベス朝における観客と演劇、エリザベス朝演劇は発展成長の形でとらえるべきか。エリザベス朝演劇はどこまで劇作家と彼のヴィジョンの展開の過程としてとらえられるか。逆に、劇作家はどこまで歴史という磁場に働く諸々の力により形成された存在とみるべきか。
B(1)とりあげる作家:キッド、マーロー、シェイクスピア、ジョンソン、マーストン、ボーモント&フレッチャー、ウェブスター、ミドルトン、フォード他。
(2)この時代の演劇史を、エリザベサン、ジャコビアン、カロラインの流れの形でとらえることの可否。
(3)演劇史の研究に、俳優、劇団、劇場、興行師、観客、そして、パトロン(宮廷や市)などをどこまで考慮に入れるべきか。
(4)エリザベス朝演劇史に画期的時点はあったか、あったとすれば、それはどこで、その影響の及ぶ範囲と、長さをどう規定するか。
(5)「大学才人」の意義
(6)パブリックとプライヴェート・シアターのライヴァル・トラディションズ(ハーベッジ)
(7)エリザベス朝演劇における王の問題、その他。

 

セミナー2

ロマンス劇を読む--Cymbeline The Winter's Tale を中心に

司会:東京都立大学助教授 末廣 幹

今回のセミナーの目的は二つのロマンス劇の、できるだけ具体的な場面に焦点を当てながら、多様な読みの可能性を示すことにあります。Cymbeline ではポステュマスの賭けの場面やイモジェンの寝室の場面を取り上げ、ローマという場面設定、古典へのアリュージョン、イヤーキモーによるイモジェン表象のレトリックが劇全体との関係でどのような機能を果たしているかを検討します。The Winter's Tale では、材源Pandosto には登場しないポーライナの強い女性としての劇的機能を考察したり、終幕の彫像の場面におけるスペクタクルと語りとの関係、artとnatureの問題などを、エリザベス朝のロマンスや牧歌、宮廷仮面劇などの様式と比較しながら、検証します。セミナー後半では、ロマンス劇の内容(王国の再建やジェンダーとセクシュアリティの問題)と形式(ジャンルの混淆やスペクタクル性)との関係についても議論するつもりです。

 

セミナー3

変身・変装・異性装

司会:東京大学助教授 河合祥一郎

1550〜1642年にロンドンで上演された芝居の7割以上が変装を用いている。ルネサンス演劇を特徴づける変装にはどのような意味があるのだろうか。このセミナーでは、「私は私ではない」と言うヴァイオラが行なう一般的な変装のみならず、同じように「私は私ではない」と言いながらも一般的な変装はしていないイアーゴーのような人物の自己呈示のあり方もdisguiseとして捉えて議論してゆく。討論の流れとしては、まず一つの作品The Comedy of Errors を具体例にとってguiseとdisguiseの問題を議論する(岩田)。続いて、異性装を中心とするguiseとdisguiseの問題を考えてゆくために、修辞的パフォーマンスとしての恋愛、及びジェンダーと欲望の問題をとりあげる(高桑)。そして、変幻自在な自己と「本当の私」との関係(河合)、あるいはアイデンティティは多様なのか不在なのかという問題(細川)を検討しながら、guise / disguiseの持つ意味をさまざまな角度から分析してゆきたい。

 

セミナー4

Fool再考

司会:慶応義塾大学専任講師 小町谷尚子

シェイクスピア劇のFoolを理解しようとするとき、我々はまず、Foolという記号がどこまでの範疇を指し示すのかという問題に直面するのではないだろうか。エリザベス朝においてFool・Clown・Buffoonの区別が曖昧であったように、従来の道化論は喜劇的人物を道化的人物や広義の道化とみなすことで、道化そのものの定義を曖昧にしてきた嫌いがある。改めて指摘するまでもなく、シェイクスピアのFoolといわゆる喜劇的人物とは別物である。こうした点を踏まえた上で、しかしここでは一旦発想を逆転し、喜劇的人物はどこを以って道化的と見なされるのか、彼らのどこに道化的要素があるのか、といった視点から問題に接近してみたい。そうすることで、存外鮮明にFool本来の性質や働きが見えてくるように思われるし、さらに、そうした作業を通して両者の差異・境界を明らかにすることもできるように思われるからである。社会学・人類学・女性学・精神分析学などの諸批評理論を援用しつつ、FoolとFool-like characterの演劇的機能を分析すること、また、Foolと他のキャラクターとの関係性やFool(authentic fool)そのものの理解に一石を投じること、それが本セミナーの課題である。

 

会 場 案 内

10月23日(土) 10月24日(日)

開会式 1号館2階201 講演 1号館2階201

臨時総会・フォーラム 同上

∞∞ 研究発表 ∞∞ ∞∞ セミナー ∞∞

第1室 1号館1階117 セミナー1 2号館2階279

第2室 1号館2階230 セミナー2 2号館3階378

第3室 2号館2階279 セミナー3 1号館1階117

第4室 2号館3階378 セミナー4 1号館2階230

∞∞∞∞∞∞∞∞  ∞∞∞∞∞∞∞∞

懇親会 ホテル東日本 昼 食 1号館2階203

会員控え室・休憩所
1号館2階203



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