シェイクスピア学会

 

 

39回シェイクスピア学会

 

プ ロ グ ラ ム


    

 

 

 

 

20001028日(土)/29日(日)

会場:神戸松蔭女子学院大学

(〒657-0015 神戸市灘区篠原伯母野山町1丁目2番1号

 

主催:日本シェイクスピア協会

 

 

 

 

* 会場への行き方は、巻末の「交通案内図」をご参照ください。

* 学会の開会式、臨時総会、フォーラム、特別講演、パネル・ディスカッションは2号館213で行なわれますが、研究発表、セミナーは5号館で行なわれますのでご注意ください。

* 受付は5号館1階ロビーで開会の30分前から始めます。本年度会費未納の会員と新入会員の方は8,000円(学生会員は5,000円)をお支払いください。

* 講演は一般公開です。研究発表、セミナーへの参加は会員に限られますが、会員の紹介があれば一般の方も出席できます。

* 懇親会へのご出欠および28日昼のお弁当(\1000)の要不要を同封のハガキで930日までにお知らせください。なお、懇親会会費は、1028日当日あらかじめ学会会場受付で申し受けます。懇親会へはご家族、ご友人のご同伴を歓迎します。

* 28日(土)、29日(日)の学会当日の連絡先は、電話078-882-6122(代表)となります。

* 今年度のシェイクスピア学会は、宿泊関係の斡旋はありません。

 

* 研究発表およびセミナーに参加される方へ

ハンドアウト等の資料は、あらかじめ充分な枚数をご用意ください。不足分が出ても会場校では複写することはできません。また、資料を前もって会場校へ送ることは、混乱を生じる場合がありますのでご遠慮ください。

 

日本シェイクスピア協会のホームページ

http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/sh/

でも学会についての情報がご覧になれます。

 

日本シェイクスピア協会

101-0062東京都千代田区神田駿河台2-9研究社ビル501

Phone/Fax 03-3292-1050     振替口座00140-8-33142

 

 


プ ロ グ ラ ム

1028日(土)

 

13:002号館213教室]

開会の辞          日本シェイクスピア協会会長     喜志哲雄

              神戸松蔭女子学院大学学長        荒井章三

臨時総会

フォーラム

 

14:00-17:00 研究発表

1室[5号館531教室]

司会:明星大学教授  住本規子

1.ジェイムズ朝初期の英国史劇――歴史認識とドラマトゥルギーの視点から

筑波大学専任講師  佐野隆弥

2.錯綜する情報――シェイクスピアの『マクベス』を中心に

九州大学教授  徳見道夫

 

司会:津田塾大学教授  前川正子

3.シェイクスピアと'modesty'                    

近畿大学教授  芝 史朗

 

第2室[5号館532教室]

司会:東京都立大学教授  上野美子

1.ヴェニスの商人の寡黙な自己形成

福岡大学大学院博士課程  鶴田 学

2.Julietの自立と家父長制の批判               

北海道大学助手  宮下弥生

 

司会:関西外国語大学教授  今西雅章

3.Shakespeare's Structural Metaphors: A Cognitive Approach

中央大学教授  Graham Bradshaw

 

第3室[5号館511教室]

司会:大阪学院大学教授  石田 久

1.演技する復讐者たち――復讐悲劇における演劇性の変遷をよむ         

  筑波大学大学院博士課程 西原幹子

2.『夏の夜の夢』の怪異性について――出産の観点から          

大阪市立大学助教授  杉井正史

 

司会:立教大学教授  村上淑郎

3.ShakespeareFriar Laurence は「逃げ」なかった――Romeo and

 JulietTomb-Sceneにあるト書き"Exit Friar Laurence."の意味

広島女学院大学専任講師  五十嵐博久

4.「火と空気」の女――『アントニーとクレオパトラ』とシェイクスピアの演劇意識

明治学院大学教授  新谷忠彦

 

第4室[5号館512教室]

司会:筑波大学教授  加藤行夫

1.『二人の血縁の貴公子』における結婚について

九州大学大学院博士課程  高森暁子

2.『ペリクリーズ』の終幕の語りを読む               

清泉女子大学教授  門野 泉

 

司会:名古屋大学教授  山田耕士

3.『パリスの審判』におけるアレゴリーの手法――愛と貞潔の対立から融和へ

明石工業高等専門学校専任講師 前原澄子

4.フィロクリアと自然の交感――『ニュー・アーケイディア』論      

東京経済大学教授  川井万里子

 

 

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♪  17:3020:00  懇親会

♪   会場:学生ホール棟2階食堂A(電話078-882-6122 ()

♪   会費:6000

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1029日(日)

10:00-11:30  特別講演[2号館213教室]

司会:東京大学教授  高田康成

鞭と振り子――ミケランジェロの叙情

桃山学院大学名誉教授  藤澤道郎

西洋美術の最高峰をきわめた巨匠として誰知らぬものもないミケランジェロ・ブオナローティは、300余篇の抒情詩を残した異色の詩人でもあった。美術家としてのミケランジェロの評価はすでに彼の生前から確定して動かないが、詩人としての評価はと言えば、多くの批評家、文学史家を困惑させ続けてきたとしか言いようがない。英雄性と自信に満ちた彼の彫刻や絵画や建築の作品と比べて、彼の抒情詩はあまりに暗い苦悩に満ち、佶屈として常に破綻を孕んでいる。彼の詩の制作は老年期に集中しているが、なぜこの時期に大量の抒情詩を書かねばならなかったのか、美術家としての栄光の頂点に確固たる地位を占めていたミケランジェロがなぜこういうかたちで自己を表現しなければならなかったのか。本講演はその問いに一定の回答を与えようとする試みである。

 

 

11:3013:00  昼休み

5号館1階ロビーにてお弁当をお受け取りください。

一般会員控え室は521523教室(5号館2階)です。

 

 

13:001600  セミナー&パネル・ディスカッション

 

パネル・ディスカッション [2号館213教室]

舞台を読む――King Johnの場合

司会:田中雅男(神戸松蔭女子学院大学教授)

パネリスト:小町谷尚子(慶応義塾大学専任講師) 高田茂樹(金沢大学助教授) 井野瀬久美恵(ゲスト・甲南大学教授)

コメンテイター:齋藤 衞(武庫川女子大学教授)

 

セミナー1 [5号館511教室]

結婚のディスコースと英国ルネサンス演劇

コーディネーター:楠 明子(東京女子大学教授)

メンバー:原 英一(東北大学教授) 小林かおり(同朋大学専任講師) 

中村裕英(広島大学助教授) 阪本久美子(名古屋商科大学専任講師) 

竹村はるみ(姫路獨協大学専任講師)

 

セミナー2 [5号館531教室]

ローマ史劇を読む――身体とその表象をめぐって

コーディネーター:村主幸一(名古屋大学教授)

メンバー:藤澤博康(近畿大学専任講師) 正岡和恵(成蹊大学助教授)

コメンテイター:吉原ゆかり(筑紫女学園大学助教授)

 

セミナー3 [5号館532教室]

17-18世紀におけるシェイクスピア劇の改作について

コーディネーター:野田 学(明治大学助教授)

メンバー:大矢玲子(慶應義塾大学専任講師) 草薙太郎(富山大学教授) 

山崎順子(國學院大學栃木短期大学教授) 

 

セミナー4 [5号館512教室]

日本近代文学とシェイクスピア

コーディネーター:川地美子(杏林大学教授)

メンバー:水崎野里子(和洋女子大学非常勤講師) 小林潤司(鹿児島国際大学助教授) 平 辰彦(秋田経済法科大学短期大学部専任講師) Paul  A. S. Harvey(大阪大学外国人教師) 宮澤信彦(専修大学非常勤講師) 藤原博道(青山学院大学非常勤講師) 石塚倫子(那須大学助教授) Daniel Gallimore(オックスフォード大学大学院) 鈴木雅恵(京都産業大学助教授)

コメンテイター:藤田 実(関西大学教授)

 

 


【資  料】


研究発表要旨

 

ジェイムズ朝初期の英国史劇

――歴史認識とドラマトゥルギーの視点から

筑波大学専任講師  佐野隆弥

1590年代に隆盛を極めた英国史劇は、世紀の変わり目からジェイムズ朝初期にかけて大きな変貌を遂げる。量的な面での創作数の著しい減少もさることながら、質的な面、とりわけ戯曲中に表出される歴史認識の相違に、(さほど多くない)批評史の関心は集中してきた。

本発表では、終末論と選民思想という従来の見解の有効性と汎用性を、Sir Thomas Wyatt (Lady Jane)When You See Me, You Know MeIf You Know Not Me, You Know Nobody, Part IIf You Know Not Me, You Know Nobody, Part IIThe Whore of Babylonなどの戯曲を中心に再検討したい。また、こうした歴史認識を劇作家たちが(共)有する時、彼らはいかなるドラマトゥルギーを用いることになるのか、そしてそのことが英国史劇の演劇史的展開にどのような影響を及ぼすことになるのか、に関しても考察を試みたい。

 

 

錯綜する情報――シェイクスピアの『マクベス』を中心に

九州大学教授  徳見道夫

シェイクスピアの『マクベス』を取り巻く情報は多くあった。まず、ジェイムズ一世がスコットランド出身であり、悪魔学に興味を持っていたことは、シェイクスピアの創作に影響を与えたであろうし、ジェイムズの母メアリーに関する錯綜した情報も劇作に微妙な問題を投げかけたかもしれない。本発表では、George Buchananの論(正当な王と王位簒奪者との間には明確な区別は存在しない)を軸にして、『マクベス』を取り巻く情報とシェイクスピアが聴衆に提出するメッセージを演劇というメディア性を通して考察することを目的とする。マクベスとバンクォーの情報に対する態度の違いや、シェイクスピアがバンクォーとジェイムズを血統的に結び付ける演劇的方法に焦点をあてて論じてみたい。その時、劇『マクベス』と政治権力との関係に新たな側面が見えてくるであろう。

 

 

シェイクスピアと'modesty'

近畿大学教授  芝 史朗

'Decorum'の思想がシェイクスピアの作品において如何に深く影響の後をとどめ芸術的完成のための強力な概念基盤となっているか、を詳しく分析したTom McAlindon (Shakespeare and Decorum, 1973)の顰に倣い、ルネッサンス、あるいは、シェイクスピアのコンテキストにおける、'modesty'という当時としては比較的新しい言葉のメカニズムについて考察してみる。この言葉は、ルネッサンスの基本思想として'decorum'とほぼ同様に重視されているだけでなく、シェイクスピアでは、むしろ'decorum'以上に多方面に価値があり、その中心的な意味「節度」は社会の秩序と調和の保全を約束する言葉として極めて効率よく活用され、劇的インパクト生成に見事に貢献しているように思われる。言わば'modesty'は、シェイクスピアにとって'decorum'に代わる誠に便利な愛用語の一つであったと言えようか。Romeo and JulietA Midsummer Night's Dreamを中心に考える。

 

 

ヴェニスの商人の寡黙な自己形成

福岡大学大学院博士課程  鶴田 学

『ヴェニスの商人』を巡って近年の批評は、ポーシャやシャイロックを前景化してきた。しかしながら、その一方で、劇を縦断するもうひとつの大きな断層線、すなわちアントーニオについては未だ充分な考察がされていないように思われる。

アントーニオとは何者だろうか。この劇では、語りながら積極的に自己形成していく類の主体とはまた少し違った主体のあり方が、アントーニオを通じて示唆されているのではないだろうか。観る者に寡黙な印象を与え、総じて受動的に振る舞う「ヴェニスの商人」から、私たちが明確に読みとれるものは、ただバサーニオへの熱烈な友情だけだ。それは、結婚というような形あるものとしての成就を拒みつつ、テクストにネガとして刻印されている。

本発表は、劇をアントーニオの視線から眺めることによって、「人肉裁判」や「指輪の話」の位置づけを再考する。

 

 

Julietの自立と家父長制の批判

北海道大学助手  宮下弥生

Romeo and Juliet において、Julietが両親に従順な少女から精神的にも性的にも大人の女性へと成長をとげる過程がみられるという見解が一般に受け入れられている。しかしJulietの言葉を吟味してみると、劇の初期の段階からすでにその後顕在化していく自立への萌芽が見て取れることがわかる。そして、このJulietの自立の過程はこの劇の大切なテーマの一つとなっている家父長制とも無関係ではない。寡黙で従順であった女性が自己の内面に対する認識を深め、それを発言するようになったとき、家父長制はその危うさを問われることになるのである。本発表ではJulietが自己認識を獲得していく過程を再度検討し、その結果この劇において家父長制のもつ独裁的な性質が批判の対象となっているということを論じてみたい。

 

 

Shakespeare's Structural Metaphors: A Cognitive Approach

中央大学教授  Graham Bradshaw

It seems no exaggeration to say that understanding of metaphor has advanced more in the last twenty-five years than in the previous two thousand years.  Two books by George Lakoff and Mark Johnson frame the period, and the advances, in question.  Their first collaboration, Metaphors We Live By, appeared in 1980, the same year as Greenblatt's Renaissance Self-Fashioning.  By drawing on converging empirical results within different disciplines, this confirmed that metaphor is crucial in everyday language and in our processes of thought and inference.  Unfortunately, Shakespeare critics were largely unconcerned by what this might tell us about Shakespeare's local and structural metaphors, or about the ways in which Shakespeare thinks through metaphors.

Lakoff and Johnson's most recent collaboration, Philosophy in the Flesh, appeared in 1999, and mounts a full assault on the whole post-Cartesian Western tradition of analytic philosophy that so rigidly separates mind from body, reason from imagination, and cognition from understanding.  This too has produced little or no response, in the current politicised climate of Shakespeare studies.

In my thirty-minute paper, I consider a few reasons why we Shakespeare critics should be listening more carefully to what the cognitive linguists, philosophers and anthropologists have been telling us. For example, they have shown how our metaphoric systems for conceptualising the "self" always consider the self as split between a Subject and one or more Selves. This not only bears on what happens in plays like Othello or Coriolanus, it exposes what is anachronistic in many currently fashionable New Historicist or cultural materialist accounts of the "self". To take a different example, Shakespeare frequently uses basic conceptual metaphors like "Black is Foul" or "The State is a Body" as structural metaphors; but then, as I shall try to show, his charactersitic procedure is then to set different basic metaphors against each other. In each of these cases, the cognitive approach can function like an X-ray, illuminating the plays and exposing some of our own currently fashionable forms of wishful thinking.

 

 

演技する復讐者たち――復讐悲劇における演劇性の変遷をよむ

筑波大学大学院博士課程 西原幹子

本論の目的は二点ある。まず一点目は、復讐悲劇のなかで復讐者とその演劇性との関係が、時代を追うごとに変化していることを検証したい。扱う作品としては、トマス・キッドの『スペインの悲劇』(1585)、ジョン・マーストンの『アントニオの復讐』(1600)、シェイクスピアの『ハムレット』(1600)、シリル・ターナーの『復讐者の悲劇』(1606)を取り上げたい。その際、特に復讐者を特徴づけるいくつかの項目、たとえば劇中劇、狂気、肉体嫌悪、女性嫌悪、キリスト教的道徳観との関係性、メタシアター的要素などに焦点を当て、それぞれの作品において、演技する復讐者がどのように描かれているのかを論じたい。第二点目は、「近代的主体」を胚胎している時期である、エリザベス朝ルネサンスという時代背景を考慮に入れた場合、一点目で検証した復讐者とその演劇性との関係の変容は、どのように捉えることが出来るのか考察したい。

 

 

『夏の夜の夢』の怪異性について――出産の観点から

大阪市立大学助教授  杉井正史

この劇は結婚をテーマとしている。しかし、子細に検討してみると、劇は結婚に相応しくないようなイメージに満ち溢れている。特に結婚では、忌避されるべき異常出産、流産のイメージが現れている。さまざまな文脈で使用される'disfigure',  'monster',  'preposterous'などの語は全て、当時奇形児を示すものであった。また劇では'strange''wonder'など怪異性が強調される。さらに、夢や眠りや幻も形の弱いものの典型である。しかも妖精の取り替っ子の母親は、産後に死亡している。子孫繁栄を願うはずの劇でなぜこのようなタブーが出てくるのか。本発表は、劇と出産との関係を考察することによって、劇の特色を探るものである。

 

 

ShakespeareFriar Laurence は「逃げ」なかった――Romeo and Juliet Tomb-Sceneにあるト書き "Exit Friar Laurence."の意味

広島女学院大学専任講師  五十嵐博久

Romeo and Julietの5幕3場、Julietが目をさます場面に"Exit Friar Laurence."というト書きがあるが、初演当時、Friarを演じる役者はここをどう演じたのだろうか。「逃げる」というのが一般的な演出方法のようだが、どうもしっくりこない。彼にはなぜ「逃げる」必要があったのか、その動機が分からないのである。他方、テクストにあるヒントは、5幕3場261行目のFriar自身の"A noise did scare me from the tomb"という不可解な台詞のみである。この "tomb"は「納骨所」なのか「棺桶」なのか、それとも「死」ないしは「死の場面」という意味なのか。また"scare"という語はShakespeareには珍しい語である(版によっては "scarre"と綴られ、また現代では "scarce"と綴られるケースがある)が、この意味はすぐにはピンとこない。かつて、ジョンソン博士は、こうしたテクストの難所に遭遇すると、劇中人物の性格を考え、その行動に一貫性を持たせることがテクスト修訂の指針であると考えるに至ったが、その方法は現代でも有効であろう。本発表では、まずFriarの性格を捉え、そしてそれに似合う退場の仕方を、劇中の他の根拠も参照にしながら考え直してみたい。

 

 

「火と空気」の女

――『アントニーとクレオパトラ』とシェイクスピアの演劇意識

明治学院大学教授  新谷忠彦

『アントニーとクレオパトラ』ほどその評価が分かれる作品もあまりない。それは、『マクベス』までの悲劇群の後でこの作品の世界に足を踏み入れた者が経験する一種の戸惑いの反映とも言えよう。ブレヒトの異化効果にも似て、喜劇と悲劇の混交、言葉と行動の乖離、場面の処理法、人物描写など、観客の意識を屈折させずにおかない手法が随所に見られる。そしてその最大のものが、「地、水、火、空気」、なかんずく「地と水」をたっぷりと持った第4幕までのクレオパトラと、「地と水」は削り落とされ、「火と空気」の存在に飛翔するクレオパトラとの間の裂け目(そういえば、海から帰還したハムレットにも似たようなことが見られた)にあることは言うまでもない。そしてそれはこの作品の劇的手法と深く関わることでもある。問題は、このクレオパトラ、ひいては作品全体を貫く手法の背後にどのようなシェイクスピアの演劇意識が働いているかである。本発表では、第4幕から第5幕へのクレオパトラをとりあえずの取っ掛かりとして、その点を考えてみたい。

 

 

『二人の血縁の貴公子』における結婚について

九州大学大学院博士課程  高森暁子

シェイクスピアとフレッチャーの共作による『二人の血縁の貴公子』は、劇全体にわたって結婚をモチーフとし、結婚をめぐる登場人物の葛藤や変貌を追いながらプロットが展開する。メインプロットとサブプロットの結末にともに結婚を用意しながら、そこに現れるのは異性愛の成就と社会的調和のシンボルとはおよそかけ離れた結婚の姿である。親友の死を嘆きながらエミリアを得たパラモンと、異性愛を受け入れぬまま妻となるエミリアの結婚が示すのは、結婚と欲望の成就との間の矛盾に他ならない。またパラモンを恋しながら発狂し、パラモンと信じて別の求婚者と結婚する典獄の娘の姿には、欲望を合法化する結婚の、制度としての画一性が暗く影を落としている。個人の欲望に対して結婚はどこまで有効であり得るか。劇は一貫してそのことを問い続けている。本発表ではこの劇が提起する結婚をめぐる個人の欲望と社会との関係について考えてみたい。

 

 

『ペリクリーズ』の終幕の語りを読む

清泉女子大学教授  門野 泉

『ペリクリーズ』は、作者やテキストに関する問題を抱えているために、取り上げられることが比較的少ない劇といえよう。しかし、難しい問題を抱えているとはいえ、語りを強く意識した劇として、独特の世界を構築している作品である。コーラス役のガワーが、劇中しばしば登場し、劇の進行に関わるばかりでなく、劇中の登場人物も、物語の重要な語り手の役目を担い、多様な語りが劇中に挿入されている。

今回の研究発表では、作者やテキストに関する議論とは距離を置き、『ペリクリーズ』における語りに焦点を絞って考察したい。特に、第5幕の語り、なかでも、マリーナとペリクリーズの再会の場面を中心に、語りの演劇的な意味を考える予定である。

 

 

『パリスの審判』におけるアレゴリーの手法

――愛と貞潔の対立から融和へ

明石工業高等専門学校専任講師 前原澄子

George PeeleThe Araygnement of Paris1584年版四つ折本には、この劇が王室チャペル少年劇団によって御前上演されたことが記されている。世界で最も美しい女性ヘレンと引き換えに黄金のりんごをヴィーナスに渡す「パリスの審判」は、ルネッサンス期の詩や演劇にたびたび登場するモチーフであり、エリザベス朝の観客にとっては愛と貞潔の問題を投げかける馴染み深い題材であったことが想像される。ところがピールの『パリスの審判』に関しては、これまで「審判」の寓意性はほとんど問題にされたことがなく、むしろエリザベス女王へ黄金のりんごを捧げる幕切れの手法が劇の意味を決定するものとして注目されてきた。本発表では、女王崇拝の衣を纏って提示されるネオ・プラトニズムに基づく「愛」と「貞潔」の概念構造を明らかにすることによって、作品に横たわる対立から融和へのダイナミックスを、1560年代のインタールードから後代のロマンス劇に引き継がれる重要な特徴の一端として照射してみたい。

 

 

フィロクリアと自然の交感――『ニュー・アーケイディア』論

東京経済大学教授  川井万里子

P・シドニーの『ニュー・アーケイディア』のなかば、語り手はフィロクリアの思い出のためにこの長編物語を書いたと告白する。100名以上に及ぶ登場人物のなかで詩人が最も親しい存在として選んだフィロクリア像の理解は、この作品解釈のひとつの鍵であろう。本論は森と川の場面を中心に、フィロクリアと自然の親和交感とその意味について考察する。最高の階級位である王女がただ一人深夜の森奥の地べたに横たわり森の神々に恋の悩みを訴えるという一見奇異な姿にシドニーが託したであろう図像学的意味。愛による万物の変貌というフィロクリアの木下の瞑想の命題が作品全体に持つ意味。人物の背景としての風景ではなく、人物を点景とする森のパストラル・ヴィジョン。蛇行するラドン川に水の精のように踊るフィロクリアの白い裸身を「のぞき見る」ピロクリーズとアムファイアラス。新プラトン主義の低次の感覚美に溺れがちなフィロクリアとピロクリーズの恋は死の試練を経て精神的な成長をとげ、アムファイアラスの愛欲は自己破滅的軌跡をたどる。主要人物中最も若くか弱い乙女が自然と交感しつつ成長してゆく姿に、危機意識を秘めながら人間の可能性を信じるシドニーの精神を見る。

 

 

パネル・ディスカッション&セミナー指針

 

パネル・ディスカッション

舞台を読む――King Johnの場合

司会:神戸松蔭女子学院大学教授  田中雅男

デコンストラクションに始まって、新歴史主義、文化唯物論、フェミニズム、ポスト・コロニアリズムといった新しい批評理論が席巻する中で、そのプラクシスとしてテキスト研究が上演に重点を移すようになってきた('from page to stage')のはけだし当然であろう。しかしその疾風もようやく沈静化に向かいつつある今日、テキスト研究の有り様を再考することは時宜にかなったことであるように思われる。

上演の研究が劇場空間、劇評や劇場関係の記録といった外的証拠に依拠し、テキスト分析を従にして、文化論へと傾斜していく方向を強める中で、テキストを立てた舞台分析を中心に、それを外的証拠で補完するという、台本としてのテキストの読み直しの作業はまだその方向が定まらないようである。Marvin RosenbergMasks of Othello (1961)とその続編において、観客受容の視点から過去の上演台本を比較分析する中で、四大悲劇の登場人物像の変遷を跡づけたが、その手法は、上演台本の分析を織り込んだテキストの刊行という形で引き継がれたと考えてよかろう。しかし、そのようなテキスト刊行も上演台本を手にしたことのない読者には、触手をそそる企画ではないようで、その進捗情況ははかばかしくない。

そこで、この二つの流れの合流点を探るため、King Johnに焦点を合わせ、歴史劇に描かれた<歴史>が時代の流れの中でどのように受容され、変容していったかを、テキストを立てて考察することにしよう。小町谷氏は先行作品との関係から、高田氏は1590年代に書かれた歴史劇全般に目配りした上で、井野瀬氏は主としてヴィクトリア時代の国民意識と上演の関係から、田中は18世紀以降の改作との関係から、議論を展開することになるであろう。齋藤氏には単にコメンテイターにとどまらず、議論に加わってもらう予定である。

 

 

セミナー1

結婚のディスコースと英国ルネサンス演劇

コーディネーター:東京女子大学教授  明子

英国ルネサンス期において男女の関係の基盤となった結婚のディスコースが、演劇でどのように表象され、その表象は社会や文化でどのような意味をもっていたのかを多面的に探究する。「処女王」エリザベス一世が存在したことの意味、「家庭劇」で描かれる犯罪の構図、当時の「現代劇」ともいえるシェイクスピアの「問題劇」が提示する結婚に関する問題点、"anti-marriage"のテーゼに貫かれた『ユーフュイーズ』シリーズと「祝婚喜劇」との関係、社会的・文化的コンテクストにおいて『じゃじゃ馬ならし』が後世にもたらした意義、といったさまざまな観点からこのテーマに取り組む。当時の結婚観が人々に与えた影響、結婚の状況、結婚と宗教・法律、あるいは男性と女性の結婚への対処の仕方の違い等に焦点を当てながら、結婚のディスコースと英国ルネサンス演劇との関わりを論じる。できれば20世紀末の問題にも絡ませながら議論を進めたいと考えている。

 

 

セミナー2

ローマ史劇を読む――身体とその表象をめぐって

コーディネーター:名古屋大学教授  村主幸一

今回は、参加者に作品やテーマなどの役割分担をしていません。『タイタス・アンドロニカス』『ジュリアス・シーザー』『コリオレーナス』『アントニーとクレオパトラ』の中から、自分の扱いたい作品を自分自身のアプローチで論じていただきます。しかし、なんらかの形で「身体とその表象」の問題を含めるようお願いしてあります。参加者の予定の一部は、『コリオレーナス』の主人公の行動と働きがローマ社会に対してもつ構築的・破壊的という相反する姿勢をエロスとタナトスという対立概念を用いて説明する(藤澤)、『コリオレーナス』における様々の身体表象が、初期近代イングランドでどのような文化的・政治的意義を有していたか考察する(吉原)、ストリブラスとホワイトによるバフチン身体論の読み直しに依拠しつつ、『アントニーとクレオパトラ』を論じる(正岡)、他のローマ史劇と比べると異色な『アントニーとクレオパトラ』の英雄像における身体性のリアリズム・死などの問題を論じる(村主)、などです。

 

 

セミナー3

17-18世紀におけるシェイクスピア劇の改作について

コーディネーター:明治大学助教授  野田

1718世紀におけるシェイクスピア劇の改作を、現代を含むシェイクスピア受容論の一環として考えたいと思っています。テイト版『リア王』が「改悪」の代表として取り上げられるあまり、その他の改作および当時の「新作」、改作の変遷、ひいては改作の意義そのものがより大きな問題系の中で取り上げられていない憾みがあります。そこで当セミナーでは各参加者に、「改作・編纂・批評」(大矢)「宗教から科学+道徳へ:改作モラルの流れ」(草薙)「sexual ideologyと改作傾向の変遷」(山崎)などの問題提起をお願いし、時間の余裕があればコーディネータ(野田)が「身体へ:改作と18世紀の劇作法」まで話を発展させたく思います。ただし、あくまで冒頭は各自10分強程度の問題提起にとどめ、「本論」部分はその後のディスカッションの中で、できるだけフロアからの発言をひろいながら発展させるつもりでいます。

 

 

セミナー4

日本近代文学とシェイクスピア

コーディネーター:杏林大学教授  川地美子

シェイクスピアは、明治期に日本に紹介されて以来、翻訳、翻案による上演を通して親しまれてきたが、日本の近代文学の発展にも少なからぬ影響を与えてきた。その足跡を顧みることは、日英文化交流の視点から日本近代文学の特質を探り、さらに文学のあり方を考察することにもなるだろう。このセミナーでは、メンバー各自が関心を持つテーマで話をすることになっているが、大体次の三つのグループ、(1)坪内逍遥の業績(平、藤原、ガリモア)、(2)シェイクスピアと近代小説(小林、石塚、宮沢)、(3)伝統演劇や近代劇との関連(ハーヴェイ、水崎、鈴木)に分類される。今回とりあげられる作家は、逍遥に加えて志賀直哉、夏目漱石、伊藤左千夫、木下順二らであるが、さらに沖縄の翻案についての発表もある。多彩なメンバーの議論から、シェイクスピアの大きさを再確認できればと思う。

 

 

1028日(土)                  1029日(日)

開会式             2号館213               講演                  2号館213

臨時総会・フォーラム     同上          

∞∞∞∞∞ 研究発表 ∞∞∞∞∞          ∞∞∞∞パネル&セミナー∞∞∞∞

1             5号館531               パネルディスカッション 2号館213

2             5号館532               セミナー1          5号館511

3             5号館511               セミナー2          5号館531

4             5号館512               セミナー3          5号館532

                                              セミナー4          5号館512

∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞          ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

懇親会       学生ホール棟 食堂A         お弁当受け渡し   5号館1階ロビー

 

会員控え室・休憩所

5号館521523


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